ポンペイ遺跡の遺体はなぜ2000年も残っているのか?

ポンペイ遺跡の遺体はなぜ2000年も残っているのか?

イタリアのナポリ郊外にあった古代都市のポンペイをご存知でしょうか。
ここには、ユネスコ遺産にも登録されている遺跡があります。
今から2000年ほど前の西暦79年、ポンペイはヴェスヴィオ火山の噴火による土石流によって地中に埋もれてしまいました。
ポンペイの遺跡では、地中に埋もれてしまった、当時ポンペイに住んでいた人々の遺体を見れることで有名です。
なぜ、2000年も前に遺体がポンペイには残っているのでしょうか。

ヴェスヴィオ山

ヨーロッパは火山が少ないことで知られていますが、イタリアは火山が20前後も存在しています。
夜間の海上からマグマの輝きが見えることから「地中海の灯台」と言われるストロンボリ山や、火山を意味するヴォルケーノ(Volcano)の由来となったヴォカノ山など、多くの火山がイタリアにはあります。
イタリアは火山が多いことから、火山による災害が発生することがありますが、その中でもポンペイを襲ったヴェスヴィオ山の噴火は有名です。
ヴェスヴィオ山は、紀元前217年にも大規模な噴火を起こし、紀元前65年には大地震によって付近の街に損害を与えました。
当時のローマ皇帝であるネロは、国を挙げて復興に取り組み、純ローマ風の街を再建します。
それが、ポンペイです。
しかし、79年にヴェスヴィオ山は、再び大規模な噴火を起こすことになるのです。

ポンペイを襲った悲劇

79年の8月24日にヴェスヴィオ山が噴火したことが、悲劇の始まりでした。
この噴火によって、火山灰や軽石がポンペイに降り注ぎました。
24日の午後1時に噴火が起こってから、火山灰は降り続け、25日の夜明けまでには2メートルの厚みに達していたそうです。
また、このとき小規模な火砕流が発生します。
火砕流とは、火山灰や軽石と、火山ガスが混じった高温の物質が、地表を高速で硫化する現象です。
降り続ける火山灰と火砕流の音を聞いて脱出する人もいましたが、この後に大惨事が起こることになります。
25日の朝、3回目の火砕流がポンペイの市街地に到達します。

そして、4回目の火砕流が凄まじい勢いで街を襲いました。
逃げる人々は、この火砕流に飲み込まれてしまいます。
寄り添う親子や、もがき苦しむもの、手をつなぐ男女など、すべてが火砕流に飲み込まれてしまったのです。
その数分後にもう一度、火砕流が襲い、ポンペイは火山灰に埋め尽くされてしまいました。

遺体が残る謎

現在、ポンペイは遺跡として当時の状況を残しています。
そこには街並みだけではなく、火山灰に飲み込まれてしまった人々の遺体までが残っているのです。
遺体は放置された場合、腐食により分解されて土に帰るものです。
しかし、ポンペイでは2000年を経た今でも、当時の人々がどのような姿で火山灰に飲み込まれたのか知ることができるのです。
ポンペイの発掘は1748年に再発見されてから、少しずつ行われました。

本格的に発掘が始まったのは、1860年のことです。
発掘作業のリーダーであった、ジュゼッペ・フィオレッリ博士(Giuseppe Fiorelli)の指示のもと、火山灰に埋まったポンペイから様々なものが発掘されます。
このとき、火山灰層の中に謎の空洞が数多く存在することに、フィオレッリ博士は気付きました。
それは、当時火山灰に飲まれ、埋まってしまった人々が腐食によって分解され、空洞だけを残したものだったのです。
そこで、その空洞に溶かした石膏を流し込み、固まってから掘り出してみたところ、遺体を鋳型として発掘することに成功しました。
その鋳型は灰に飲まれてしまった人たちの、そのときの姿勢をとどめていて、中には苦悶する表情や髪型まで再現されたものもありました。
こうして、2000年前にあったポンペイの悲劇による被害者たちの遺体は、当時の姿を残したまま、現代に現すことになったのです。

自然と共存する

このように、自然はときに災害として人を死に至らしめます。
人間が環境を歪めれば歪めるほど、その脅威は頻繁になることでしょう。
また、自然環境が健全な状態だったとしても、自然災害はいつかどこかで起こるものです。
そのため、私たちは自然と共存する方法を模索する必要があるでしょう。
ポンペイの遺跡は、自然災害の恐ろしさを私たちに知らせ、自然と共存することの必然性を教えてくれる、と言えるでしょう。

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