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SDGsの萌芽をみる 鉄鋼王・富の分配者カーネギーと公益の追求者渋沢栄一

SDGsの萌芽をみる 鉄鋼王・富の分配者カーネギーと公益の追求者渋沢栄一

米国の鉄鋼王と言われるカーネギー(1835―1919)。日本の資本主義の基礎を築いた渋沢栄一(1840―1931)。いずれも19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍した著名な企業人です。

カーネギーは、巨万の富を築いたあと、経営の一線から退くと、「富の分配」に勢力を注いだ。図書館を整備し、教育基金をつくり、平和活動へと――。渋沢栄一は、日本の近代化に貢献し、数々の企業を育てただけでなく、教育、福祉、民間外交と多方面にわたって貢献しました。

二人に共通するのは、「公」の世界の尊重であり、公益の実行です。それは、いま、国連が提案し、世界中の企業や市民が取り組むSDGsの目標と重なっています。SDGsの先駆者とすら思えます。

いま、貧富の差が拡大し、おびただしい生活困窮者が生み出されています。SDGsの大原則である「地球上の誰一人として取り残さない、または置き去りにしてはならない」が、かすんでみえるなか、あらためて評価が高まっている2人の偉業を振り返ってみましょう。

ジャーナリスト 杉本裕明



SDGsとは

国連の打ち出したSDGsは、17のゴール(達成目標)と、目標を具体化する169のターゲットがあり、2030年を目標としている。多くの企業が、SDGsを標榜(ひょうぼう)し、SDGsのさまざまな取り組みをPRしている。

しかし、SDGsの大原則は「地球上の誰一人として取り残さない、または誰も置き去りにしてはならない」である(アナン国連事務総長が唱えた)。SDGsについて、環境経済学の第一人者である宮本憲一大阪市立大学名誉教授はその根源をこう述べている。

「84年にはノルウェーの首相ブルントラントを委員長とする国連の『環境と開発に関する世界委員会』が発足し、87年に『われら共有の未来』が発表され、『持続可能な社会』を目標に掲げました。『持続可能な発展(Sustainable・Development=SD)とは、将来の世代が自らの欲求を充足させる能力を損なうことなく、今日の世代の欲求を満たすことである』。なかなかよくできた文章でSDの目標がでました」

環境問題のみに特化したわけではなく、①意思決定における効果的な市民参加を保障する政治体制②調和を欠いた開発に起因する緊張を解消しうる社会体制③自らの誤りを正すことのできる柔軟な行政体系といったことも目標にしており、社会の全体像を描いていたことがわかる。「このSDがSDGsの根源と言っていいでしょう」と宮本さんは語る。

ストックホルムの国連人権環境会議で宣言

その前の1972年には、ストックホルムで「国連人権環境会議」が開かれた。宣言文の書き出しはこうなっている。

「(1)人は環境の創造物であると同時に、環境の形成者である。環境は人間の生存を支えるとともに、知的、道徳的、社会的、精神的な成長の機会を与えている。地球上での人類の苦難に満ちた長い進化の過程で、人は、科学技術の加速度的な進歩により、自らの環境を無数の方法と前例のない規模で変革する力を得る段階に達した。自然のままの環境と人によって作られた環境は、共に人間の福祉、基本的人権ひいては、生存権そのものの享受のため基本的に重要である」

「(2)人間環境を保護し、改善させることは、世界中の人々の福祉と経済発展に影響を及ぼす主要な課題である。これは、全世界の人々が緊急に望むところであり、すべての政府の義務である」

自分の利益を優先する社会でなく、健全な市民社会や人の福祉や基本的人権を尊重する社会を描き、それが、SDGsにつながっていったようだ。

いま、環境と福祉を融合した環境福祉学を提唱する元環境事務次官の炭谷茂さんは、こんな述懐をしている。「(厚生官僚から)2001年1月、環境省の発足とともに再び環境の仕事に就いた。それまで長く福祉行政に浸かっていただけに環境の仕事をしながら福祉との関係は何かないか考えていた。それは案外無駄ではなかった。水俣市を視察した時、私は水俣病が貧困と直結していることにすぐ気づいた。貧困問題を研究し、全国各地の貧困地域を訪れている私は貧困の1つのパターンを水俣病発生地域に見出した。2002年のヨハネスブルグでの地球サミットでも環境と福祉の関係を考えさせられた。地球サミットの第1のテーマは、途上国での環境悪化と貧困の悪循環であった。環境と福祉の関係を考察することは重要であり、公務として両者の仕事に長く携わってきた私の宿命的な役目ではないかと思うようになった」

国連が提唱するSDGsにはこんな目標が

ところで、SDGsにはこんな目標が掲げられている。

目標1「あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる」
ターゲット(抜粋)「各国で最低限の基準を含む適切な社会保護制度、対策を実施し、2030年までに貧困層、脆弱層に十分な保護」「2030年までに貧困状態にあるすべての男女、子どもの割合を半減させる」

目標4「すべての人々への、包括的かつ公正な市悦の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する」
ターゲット(同)「2030年までにすべての子どもへの厚生で質の高い初等・中等教育を」「男女の差なく質の高い技術教育、職業教育」

目標10「各国内、各国間の不平等を是正する」
ターゲット(同)「税制、賃金、社会保障政策をはじめとする政策を導入し、平等の拡大を漸進的に達成する」「すべての人々の能力強化、社会的、経済的、政治的な包含を持続させる」

目標は、「平和で包摂的な社会を促進し、あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築する」 ターゲット(同)「あらゆる場所において、すべて形態の暴力、暴力に関する死亡率を大幅に減少させる」「国家及び国際的なレベルの法の支配を促進する」

逆にいうと、こういったことができないと、持続可能な社会にならないということでもある。

格差社会は環境に優しい社会になれない

環境省の脱炭素社会のあり方を審議する有識者会議で、委員の広井良典京都大学教授は、環境と福祉の統合の必要性を唱えながら、こんな興味深い数字を示した。

各国の環境パフォーマンス(どれだけ環境に優しいか)とジニ計数(数値が高いほど貧困率が高くなり、貧富の差が大きい)と、環境パフォーマンスの高い国ほど、ジニ計数が小さい傾向があったという。

例えば、各国のジニ係数を並べると、米国(0.39)、日本、ギリシャ、英国、スペイン(0.35)、フランス、韓国(0.31)、ドイツ、スイス(0.29)、オーストリア(0.28)、ベルギー(0.26)、スウェーデン、フィンランド(0.27)、デンマーク、ノルウェー(0.25)。日本は中産階層の厚い平等社会と言われてきたが、格差が広がり、欧州のレベルから取り残されつつあることがわかる。

広井教授が言った。「この図は、縦軸がジニ係数つまり格差の度合い、横軸が環境のパフォーマンスですけれども、ある程度相関している。すなわち環境パフォーマンスが高い国ないし社会というのは、平等度も一定高い。興味深い関係性ではないかと思います」

こうした社会に向けて行政が取り組まねばならないことだが、やはり、社会を支える産業界の姿勢や取り組みが大きく影響する。 いま、多くの各企業が、競うようにSDGsに取り組んでいるが、前述した宮本さんは「会社の宣伝に利用しているようなものもあり、本当に持続可能社会に向けたものかどうか」と、課題を投げかける。

先人の偉業を見る

2021年のNHKの大河ドラマ「晴天を衝け」は、明治・大正時代の実業家、財界の指導者、渋沢栄一の生涯を描いたものだった。その彼が、最も尊敬したのは、同じ時代を生きた、米国の鉄鋼王、アンドリュー・カーネギーだった。

その両者に共通するのは、社会全体のことを考えて行動し、弱者への思いやりに満ち、国際平和にも貢献した財界人であったということ。そこにはSDGsの萌芽とも言えるものがある。先人の経緯を見よう。

スコットランドの機織り職人の子、カーネギー

アンドリュー・カーネギーは、1835年スコットランドのダムファームリン町で、手織工の父と母のもとで生まれた。敬虔(けいけん)で質素で堅実な一家の生活を、産業革命が奪った。手織機は蒸気ばた機に取って代わられ、一家は1848年に知人を頼って米国に渡った。後に鉄鋼の都市として知られるようになるピッツバーグ市の近くに住み、父は綿織工場で働き始めた。

アンドリュー・カーネギー

アンドリューは13歳になると、家計を助けるために工場で働きはじめた。糸巻き行である。仕事は厳しくつらい。やがて聡明(そうめい)なアンドリューは、面接を受けて電報配達の職を得る。勉強熱心で電信技師に昇進した彼は、さらに実績をのばし、それが鉄道会社の幹部に見初められ、同社の社員に。南北戦争が起き、戦争で鉄の需要が高まると、鉄橋建設に力を入れ、やがて1889年にカーネギー鉄鋼会社を興した。

世界的大ベストセラーになった『カーネギー自伝』(中公文庫)を読むと、幼いアンドリュー少年が、成長する中で、努力によって人から信頼され、地位と財を増やしていく過程が描かれている。自分がどれだけ優れているかを誇りがちで、よくある「立身出世の自伝」と違い、読後感はさわやかだ。それは、理不尽な扱いを受けても人を恨まず、人の悪口を言わず、人のよいところを褒め、人に感謝する一方、誠実に働き、教養を蓄え、人脈を広げ、新たな仕事に挑戦し続ける姿が、豊富な体験談から浮き彫りになっているからである。

カーネギー自伝(中公文庫)

人を蹴(け)落としたり、出し抜いたりする話はこの自伝には出てこない。それは、カーネギーが一番嫌ったことだから。彼の生き方が、氏がなくなって100年以上たっても、共感を得続けているのである。

数多くの教訓残す

しかも、読者にとってためになる教訓が数多くちりばめられている。

「私は長い一生のうちに、よい正直な仕事をしない会社が成功したのを見たことがない。そして、当時の最も激しい競争のさなかにあって、なんでも価格だけでものごとが決められると思われがちであったが、事業の上で成功する根本の原則はもっと重大な仕事の質にあると私は固く信じていた」

「私は一生のうち一回を除いては、投機的に株を売買したことはない。長い目で見る時、的確な判断に勝るものは他にない。株式市場のめまぐるしさに惑わされている人は、健全な判断力を失うのである。酒に酔ったと同じ状態になるので、ありもしないものを信じ込み、あると思ったものも、見えないということになる。相対的に物を見ることができないし、また将来の見通しがゆがめられてしまうのである」

「(労働)争議を防止するいちばんよい方法は、従業員の存在を認め、彼らの福祉に深い関心を持ち、彼らのためを本当に考えているのだということを知らせ、彼らの成功をともに喜ぶことなのである。これは、私が正直に言えることであるが、私は労働者たちと話し合うのを心から楽しんだのである。話題はいつも賃金のためとは限らなかった。そして、私は行員たちを深く知れば知るほど、彼らを好きになった」

「私の一生にはこのかじ屋のはなし(いぜん、困っていた彼を親切に採用してくれたお礼に、ある活動家に引きずられたストライキの情報を提供してくれた)のようなできごとがたびたびあった。貧しい人、困った人にしてあげた些細(ささい)なこと、親切なことばなどが、思いもよらなかったような大きな酬(むく)いをもたらすのであった。思いやりのある行為はけっしてむだになるものではない」

名をなし、財を得てからが、カーネギーらしい。

突然の引退と、「富の分配」

しかし、彼は1901年、モーガンらが鉄鋼業の大合併を図ってUSスチールを設立すると、5億ドルで自社を売却し、引退してしまったのである。当時の5億ドルといえば、いまなら、何兆円にもなるだろう。その会社を買った人は、その年に6.000万ドルもうけたと、彼は書いているから、そのまま経営者の座に居続ければ、ずっと富を増やし続けることもできた。しかし、彼はそうはしなかった。 そのあとは、公益のために奮闘しはじめた。カーネギーは「富の分配」と呼び、その蓄えたお金を社会のために、いわば社会に「恩返し」しようというのである。

もともと、カーネギーは、「富の福音」として、会社の従業員を対象に、「救済基金」をつくり、事故などで苦境に陥ったり、老齢になって困ったりしている人への年金制度の仕組みをつくっていた。「富の福音の最初の分配だった」と述べている。

そして、引退して真っ先に行ったのが、ニューヨーク市に公立図書館の分館を68建てた。他の自治体にも公立図書館と公民館を贈り、ワシントン市でカーネギー協会をつくり、科学、文学、美術などの調査、研究を行うさまざまな大学や学校を応援し、黒人の教育機関の創設に協力した。大学教員の不当に低い待遇を改善するため、基金をつくって支援した。

さらに善行基金を創設して、勇敢な行為をして犠牲になった人や遺族を救済し、その制度を欧州にも広げた。最後には、平和協会の会長に就任し、平和の活動に最後の時間を捧(ささ)げた。

カーネギーに心寄せた渋沢栄一

このカーネギーに心を動かした日本人が渋沢栄一だった。渋沢はこう書く。

「(カーネギー)氏についていかにも感ずべき点は、自ら十幾億ドルという財産を身につけておりながら、それをほとんど意に介しておらぬらしく思われることである」

「氏は、その財産その富を得たというものは、おのが世に立ってつくすべき責任をつくした結果で、事業経営に全力を注いだのは、一に天帝の使命によるかのごとく考え、その使命に基づいて蓄積したるその富は、いかに使用すれば国会社会のためになろうか、それを完全に果たさぬ以上は、決して人がこの世に立ってその本文をまっとうしたとはいえぬというがごとき、崇高の観念をもっておる」

「氏の著書に論じたる所によりて見れば、氏はかのごとき十幾億の富を蓄積し得たるは、我が知恵、我が労力のみによるにあらず、社会もまたあずかって力ある者であると言うて、ほとんどその富を我が専有物とせず、その大部分は国家のものと思惟(しい)しておる」

このようにカーネギーを絶賛したあと、自分は、東洋の哲理をもってことを律するくせがあるといって、孔子の 「論語」から引いている。

孔子に聞かれた顔淵が、『願はくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無からん』(よいことをしても自慢せず、苦労やいやなことは自分でやり、人に押し付けない)と言った。

子貢いわく「如し博く民に施して、能く衆を濟う有らば如何。仁と謂うべきか」(子貢が尋ねた。「もし、多くの民衆に施しをし、人を救う者があれば仁者というべきでしょうか?」)

子いわく、「何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ猶諸を病めり」(孔子が答えた。「仁者どころではない。聖人といえよう。しかし、尭舜も、すべての人を救うことが出来ず悩んでいた」)。

「それ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方を謂うべきのみ」(仁者は自分が身を立てたいと望めば人を立て、自分が達成したいと思えば人を達成させる。ただそれだけの事を日々実践するのが仁の道というものだ)

渋沢は「かのカーネギー氏の心事で相沿うものであろう」と書いている(青淵百話 乾)。

近代日本の創造者

埼玉県深谷市の裕福な農家に生まれた渋沢は、昨年のNHKの大河ドラマで描かれ、多くの人が知ることになるが、彼についてはおびただしい書物があり、日本の近代化に大きな功績を残した人という評価で一致している。

渋沢栄一
深谷市所蔵

勤勉で起業家精神に富む、父親(養蚕と藍玉の製造で大きな百姓となり、名字帯刀を許された)と、慈愛に富む母(ハンセン病の患者がいるとして、共同浴場から人々が逃げたことを知ると、自ら浴場に入り入浴した)のもとで育った栄一は、尊皇攘夷の思想に染まり、攘夷の決行を企てるが失敗。挫折した渋沢がめぐり会ったのが、一橋家の家臣だった平岡円四郎だった。24歳になっていた渋沢は、平岡の推挙で一橋家に仕官することになった。これが、後に将軍となる徳川慶喜との出会いとなり、彼の人生を大きく変えることになる。

大政奉還のあった1967年には、パリ万国博覧会使節団に随行し、そこで欧州の文化、文明をつぶさに触れ、攘夷論者から開国論者、合理主義思想に基づく近代化論者に生まれ変わるのである(『公益の追求者・渋沢栄一』)。随行員として経理処理能力の高さを評価された渋沢は、帰国後、慶喜の滞在していた静岡藩の勘定組頭となり、日本で初の会社組織「商会会所」を設立する。

公益の追求者・渋沢栄一(新時代の創造)

その後、帰国後は、明治政府の民部省税正(後の大蔵省)に任命され、金融制度確立の基礎となる銀行条例を作成、伊藤博文はじめ、明治の元勲たちと交わりを持つが、薩長藩閥政治を嫌い、辞職し、民間実業家として歩みを進めた。しかし、後に三菱財閥をつくる岩崎弥太郎から、「手を組めば日本の経済を牛耳ることができる」との誘いを断った。公益や道理を尊重する「論語」と合理的な経営を目指す「算盤」を融合し、「士魂商才」と呼び、その追及に向けて邁進(まいしん)した。

日本最初の銀行である第一国立銀行(後の第一勧業銀行、現みずほ銀行)を設立したのをはじめ、渋沢が自ら設立したり設立に協力した会社は約500社にのぼった。第一勧業銀行、東京海上火災、日本国有鉄道、日本郵船、日本製紙、太平洋セメント、東京電力、帝国ホテルーー。日本の近代化に、渋沢がいかに力を発揮したかがわかる。

社会への貢献と還元

しかし、渋沢は自ら財閥をつくらず、お金を残さなかった。代わりに、社会福祉、教育、国際親善・民間交流を行う、大きな足跡を残した。社会福祉では1872年に「東京養育院」を設立、自ら初代院長に就任し、60年間院長を続けた。当時は社会福祉の概念もない時代で始めたのは、フランスで病院や慈善事業を見聞したことによるという(同著)。

東京養育院院長を務めた渋沢栄一を顕彰した銅像は、東京都板橋区の都健康長寿医療センターの敷地にある
(板橋区のホームページより)

同著によると、渋沢は、思いつきでその場しのぎのような慈善行為を嫌い、持続的でなければならないという考えで、「私は、慈善事業については、なるだけ親切に、かつ継続的に経営されていることを切望」「やはり経済の原理に基づいた組織的継続的慈善事業でないと救済される人に効能があるとはいえぬ」と記している。

教育では商学という実学を重んじ、一橋大学、大阪市立大学、神戸大学などの設立に尽力し、「官尊民卑」の風潮を変えようとした。また、東京女学館の館長や日本女子大学の校長に就任し、女性教育機関への支援にも力を注いだ。カーネギーのように財をなした人ではなかったが、カーネギーの著作に感動した渋沢は、カーネギーが亡くなった後、ニューヨークに未亡人を訪ね、弔意を示している。 評論家の鹿島茂さんは、『カーネギー自伝』に寄せた解説で、渋沢がカーネギーのどこに共鳴したのか、そしてカーネギーの今日的意味をこう説いている。

「(カーネギーの著作を読んだ渋沢は)富は社会のおかげで得たものであるから、富豪となったらこれを正しく社会に還元しなければならないという、カーネギーの主張に強く共鳴したに違いありません」

「本当にカーネギーが偉いのは、慈善事業を行うにも倫理的思考が不可欠であり、その論理的思考をおもって慈善の対象を何にすればよいかを考えたなら、それは知識獲得を援助すること以外にはないと結論づけたことにあります」

「さらに一歩進んで、社会の理想的な発展のための公共投資、すなわちより良き未来を生み出す基礎となるものは何なのかを徹底的に考え抜いて、次のような最終的結論に達したのです。貧困と不平等を防ぐための最高の社会的防波堤は『平和』しかないということです」

こうして資産を平和協会のために費やすことにしたのだと。はるか昔に活躍した二人の系譜から、私たちも何か、つかみ取るものがあるかもしれない。

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