トランプ大統領の米国でカーター大統領が再評価。エネルギー危機に立ち向かい環境保全に尽くす姿に

トランプ大統領の一挙一動に世界の注目が集まっています。毎日、テレビや新聞で、トランプ大統領の名前を見ない日はありません。環境分野では、1月に気候変動対策として世界各国の約束事であるパリ協定から離脱する大統領令を出しました。化石燃料であるシェールガスの開発に力を入れると表明しています。2月には政府機関が紙のストローを使うことを禁じ、プラスチック製に戻すよう命じました。
環境問題に後ろ向きの姿勢を見せるトランプ大統領ですが、それと対比する形で注目を浴びているのがジミー・カーター氏(1924~2024)。第39代大統領(1977~81)です。トランプ氏が大統領に就任する前月の12月29日に100歳で亡くなりました。
一期4年で共和党のドナルド・レーガン氏に大統領の座をあけ渡しましたが、一民間人になってから人権と平和外交を続け、ノーベル平和賞に輝きました。清廉潔癖で、人種偏見を憎み、人権を重視し平和を愛する外交を展開、エネルギー危機に立ち向かい、有害廃棄物の汚染対策、アラスカの自然保護と、先進的な政策を立案し実行しました。ホワイトハウスに太陽光パネルを設置したのもカーター大統領でした。カーター氏の業績と人となりを「カーター回顧録」 からたどります。
ジャーナリスト 杉本裕明
「Carter who?」
ジョージア州の農家に生まれ育ったカーター氏は、ジョージア工科大学卒業後、海軍兵学校をへて潜水艦に勤務し、11年にわたる勤務を終え、故郷に戻った。そこでピーナツの栽培を独学で習得し、農業で成功を納めた。
州の上院議員を経て知事になったカーター氏は、リベラルな主張と実績、温厚な人柄が、リベラル派と黒人層の強い支持を得て大統領候補になり、共和党のフォード氏に競り勝った。
国民はベトナム戦争やウォーターゲート事件を起こしたニクソン大統領に抗議し、公平で透明性の高い政治を求めていた。しかし、カーター氏は中央政界では無名だ。「Carter who?」の声があがりました。

途中でリムジンから降りた大統領
大統領就任式が終わると、ふつう大統領夫妻はリムジンでホワイトハウスに乗り付ける。カーター一家も用意された黒塗りのリムジンに乗り、議事堂からホワイトハウスに向かった。ペンシルベニア大通りの両脇には数万の群衆が集まっていた。
突然、カーターは、身をかがめ、運転していたシークレットサービスに車を止めるよう命じた。妻ロザリンの手に手を置き、言った。「さあ行こう」。
ドアを開け、二人が降りると、9歳の娘のエイミーが続き、3人の息子と妻たちが降りる。そして大通りの真ん中を一緒に歩き始めたのである。群衆から声があがった。「彼らは歩いている!」。
1.2マイルの行程を歩くカーター一家を興奮と称賛の嵐が包んだ。カーター氏はこう書く。「外はとても寒かったが、心の中は暖かかった」

ホワイトハウスに入ったあと、室内を見たロザリンが「ホワイトハウスで幸福な生活が送れそうだわ」。カーター氏は「この場所に住めるようにしてくれた人々を失望させるようなことがあってはいけないね」。
私は民衆に信頼を置いている
ペンシルベニア大通りを歩いてホワイトハウス入りすることは、事前にスタッフに伝えられていた。なぜ、歩くのか。
「私は警備をほどこした車を離れるということが、重要な象徴的な意味を持っていることに気がついた。最近のアメリカの政治ではベトナム戦争やウォーターゲート事件に抗議する怒れる群衆が、大統領や副大統領に対してデモをしかけるのが一種の習慣になっていた。私はこうした中で、民衆に対して私が信頼を置いていることを行動で示したかったし、歩くという簡単な行動が権威主義的な大統領とその家族というイメージを少しでも拭い去るのに多少とも役に立つに違いないと思っていた」
新しい世界が新しい外交政策を要求している
人権の擁護を大切にするカーターは人権外交を掲げた。就任した年の5月22日、ノートルダム大学で、外交演説を行った。
「新しい世界がアメリカに新しい外交政策を要求している。不変の節度を基礎に置くことを価値とし、自らの歴史観に対する自信を基礎にした外交政策を求めているのだ」
カーター大統領は、国連やアムネスティ・インタナショナルや人権擁護組織の報告を読み、歴代大統領の行動の記録を見直し、どうしたらよいか考えた。それをもとにした人権外交に踏み込んだ。しかしそれは、ソ連など全体主義国家や途上国から反感を買い、西側同盟国とも意見の相違を生み出した。崇高な理念を捨て去った損得勘定で動く国際政治の現場を見て、失望したことだろう。
サハロフ博士に出した手紙
1977年2月、ソ連の反体制の物理学者で、アンドレイ・サハロフ博士が苦境を訴えてきた。サハロフ博士は、「ソ連の水爆の父」と呼ばれる。祖国に多大の貢献をした人だが、次第に政府の人権と自由の抑圧を批判するようになると、危険人物と見なされ、迫害を受け続ける。ノーベル平和賞を受賞すると、政府はさらに圧力を加え、最後は流刑処分された。のちにゴルバチョフ大統領によって自由の身となった。
カーター大統領は、博士に手紙を書き、個人的にソ連国内の人権擁護につくすことを約束した。その後、核兵器の削減をめぐる交渉で、ブレジネフ書記長との会談は厳しいものとなった。書記長はカーター大統領がサハロフ博士に手紙を書いたことに憤慨していたのだ。
でも、カーター大統領はこう言う。「私は外国の指導者を怒らせ、国際関係を緊張させた、と国の内外でしばしば批判された。しかし私は、投獄されたり、拷問されたり、あるいは基本的権利を奪われた人たちから批判されたことはない」
議会との軋轢の中、エネルギー問題に着手
カーター氏はジョージア州知事時代の1972年、科学誌「ネイチャー」に掲載された大気中の「人為的な二酸化炭素と温室効果」に関する論文に目を留めたことを米タイムズ誌が紹介している(オルタナ1月3日)。
参考:オルタナ ジミー・カーターは気候変動を最初に認識した米大統領だった
大統領に就任すると「世界の人口、天然資源、環境における起こりうる変化」に関する調査を命じ、レポートが発行された。その1つは一部の科学者が指摘していた「二酸化炭素汚染」による環境への脅威の報告だった。
報告書は、化石燃料の燃焼が、世界の気候、経済、社会、農業に広範囲かつ長期にわたって変化を引き起こす可能性があると警告し、リスクを回避するには、世界の気温上昇を産業革命前の水準より2℃以内に抑えるべきだと勧告した ものだった。これは、現在の気候変動の理論のさきがけとなる。
エネルギー政策をつくろう
カーター氏が大統領に就任した1977年。米国の外国産の石油に対する依存率は約50%。1973年にオイルショックが起きた年の35%から大幅に比率を高めていた。しかも、米国は先進諸国で唯一エネルギー政策を持たない国で、おまけに石油消費量は過去最高である。
大統領は総合的なエネルギー計画を立てることを決意する。石油と天然ガスの供給量は増大するエネルギー需要をまかないきれない。解決のためにはエネルギーの浪費をやめる一方、太陽エネルギーなど代替エネルギーの開発に取り組まねばならないと決心した。カーター大統領の目に現実はこう映っていた。
「インフレと失業の双方に悩まされ、年寄りや貧しい人々の中には台所や暖房に使う燃料代も払えない人がでてきていた。さらに国際舞台に目をやると、自分の国にエネルギー源を持たない幾つかの消費国は、とりわけこうした石油産出国側の圧力に弱く、そうした国は実際に外交政策を変えつつあった」
1973年にオイルショックを経験した日本もその1つの国だった。世界の主要な石油産出国で、かつ世界最大の消費国の米国が何をすべきなのか。「世界一の大国が少数の砂漠の国に鼻づらを引っ張り回されることを嘆いている」わけにはいかないのだ。
しかし、南部のジョージア州からワシントンに乗り込み、首都のエスタブリッシュに挑もうとしても、インサイダーになろうとしても、その壁は厚く高く、アウトサイダーの位置に留まらざるを得ない。頼りにしたのは国民、民衆だった。
カーディガンを着て、国民に語りかける
大統領は、ホワイトハウスの書斎にある暖炉に薪をくべ、カーディガンを着て座り、何をすべきなのかを国民に語りかけた。
「われわれの計画は節約を強調するでしょう。節約しようと思えばできる無駄なエネルギー消費量を合計すれば、われわれが外国から輸入しているエネルギー量を上回るものになります」
「われわれは太陽エネルギーやその他の再生産が可能な新しいエネルギー源の研究に特に力を注ぐでしょう。さらにわれわれは必要な原子力エネルギー生産においては安全のための厳しい補償措置を維持するでしょう」
エネルギー不足の解決のために、石油・ガス業界は、すべての法律や規則を撤廃し、自由市場にまかせろと、議会へのロビー活動を活発化させていた。だが、現実には自由な市場は存在せず、OPEC(石油輸出機構)がカルテルを結び、価格統制していた。
解決策はまず石油の需要を減らすことだ
大統領はこう判断した。解決策は需要を減らし、原油をだぶつかせること、国内の生産を増やし、節約を奨励するために国内の石油価格を引き上げることだと。そして引き上げによって得る企業の利益を消費者大衆と分け合うことだと。
これを政策として進めるために、新たにエネルギー省を設置し、総合エネルギー政策を実行するため、議会に提案することになった。しかし、様々な業界団体や議員たちが抵抗した。大統領は日記にこう記している。
「特別な利益団体によるロビー活動の強さ、特に自動車産業と石油産業によるものは信じられないほど強力だ」(1977年6月9日)。
石油産業のロビイストたちは、彼らに同調しないはずのリベラル派の議員たちにも工作していた。力の強いグループのすべてがさまざまな理由で法案に反対の立場を取り、上院の過半数を制するまでになっていた。
ロビイストたちの暗躍
発足したエネルギー省の長官には、大統領が最も信頼する側近のシュレジンジャーが就任し、政策をまとめた。いくつかの法案が議会で用意されるが、合意のめどがつかなかった。カーター大統領は77年にテレビを通して国民に語り掛けると共に、議会で演説を行った。そして関係者をホワイトハウスに招き、説明会を開き、理解を得ようとした。
エネルギー法案は5本の法律からなっていたが、年が明けてもなお、審議は継続された。ロビイストたちが動き回り、秋の到来が告げられても、なお、法律を不用だと言い張る議員が多数いた。採決の日が刻々と迫っていた。そして――。
「きょうは悪夢のような日だった。エネルギー法案についての投票は賛成207対反対206で、賛成派の最後の一票は共和党のトム・エバンス議員が投じたものだった。彼は私が電話をかけた後やっと態度を変えたのだ。共和党が彼にかけた圧力はたいへんなものだったとだけ言っておこう。トムはきのう大統領執務室で私と会った時にエネルギー法案の一括採決に賛成票を投じると約束していたが、その約束を守るのは彼にとって至難の業だった」(1978年10月13日、日記より)
厳しい規制と優遇策
きわどい勝負にカーター大統領が勝利した。5本の法律からなるエネルギー法が一括して採択されたのである。
ガソリンをがぶ飲みする大型車の生産に厳しい罰則規定が設けられた。電力・ガス会社はこれまでの大口需要者への料金の優遇措置が取れなくなった。家庭で使う電気・ガス器具は効率性を高めることが求められ、アルコールをガソリンに混ぜた燃料の生産に取り組み、通勤の際に車の相乗り制度を促進するため税制上の優遇措置をとることが決まった。
さらに新エネルギー(再生可能エネルギー)の開発を促進させ、太陽エネルギー(光と熱)の開発を促進させるために、住宅などに太陽光パネルを設置した場合に税制面での優遇措置を行うことも決まった。いまの気候変動対策にも導入されている施策が幾つも垣間見える。
一方、自然環境を守るために、石油と石炭の露天掘りを禁止し、海底油田の採掘権を貸与することに規制をかけた。乱開発の防止である。
さらにカーター大統領はこの法律だけでなく、次の段階で石油価格規制の撤廃や石油会社に対する課徴金制度の導入、合成燃料の開発などを考えていた。
国民の多くが支持したわけではなかった
2年がかりの立法だったが、国民の多くがもろ手をあげて賛成したわけではなかった。1978年11月インタビューにこう語っている。
「パナマ運河条約とエネルギー法案をめぐる議会と私のたび重なる要請に対してアメリカ国民たちは耳を覆うようになっていたのである。エネルギーは重要な課題であったにもかかわらず大衆はガソリン・スタンドで長い列を作ったり、突然の値上げで腹を立てたりする時以外、この問題に興味を持たなかったのである。そして、長い列とか、値上げは私の責任にされたのであった。問題が起こるのはすべて大統領の責任にされる。仮に大統領がその問題の本質をうまく説明したとしても」
パナマ運河条約というのは、領有権を巡ってパナマ政府ともめていた事案で、カーター大統領は、米国がパナマ運河の領有権を返還するかわりに、戦時下の運河地域の中立とアメリカ船の航行権の保証を得る新条約を結んだことをいう。国益を損ねると批判され、上院では批准に必要な3分の2をわずか1票上回って採決されたいわくつきの条約だった。のちにトランプ大統領がこの問題を再び俎上にあげている。
スリーマイル事故を機に再び
1979年3月28日、ペンシルベニア州ハリスバーグ近くにあるスリーマイル島の原子力発電所で事故が発生した。作業員らの懸命の努力で、大惨事となるのを何とか食い止めた。4月1日、カーター大統領は原発を訪れ、コントロールルームで担当者から話を聞いている。
回顧録では、原発の安全神話が崩れ、全世界で大きな問題となったにもかかわらず、ほとんど触れていない。しかし、思うところがあったのだろう。あれだけ議会と対立し苦労したエネルギー問題に再び、取り組もうというのだ。
太陽光パネルをホワイトハウスに
カーター大統領は多様な意見を得るために各界から大勢の人を集め、グループに分け、意見を聞いた。もちろん議員も参加した。それを経て石油への新しい課税措置、代替エネルギーへの移行、節約の強化で大筋合意にこぎつけたのである。
4月5日、大統領は石油エネルギー節約の追加措置について演説し、訴えた。石油会社から得た課徴金は、低所得者向けのエネルギー安全補償基金、公共交通事業、新エネルギー源研究開発に使うと提案した。
だが、またしても議会との対立だ。課徴金の税率はカーター大統領が提案した50%から、増収額に応じて30~70%の間に、使い道も他の国庫同様、議会が決めると修正された末、1980年4月に石油産業の臨時収益への課税が承認された。いくつかの法案はのこり、大統領拒否権を覆し、石油輸入税法案は議会によって葬られている。それでもようやくエネルギー保障法が成立する運びとなった。
カーター大統領は79年にホワイトハウスの屋根に太陽光パネルを設置している。2000年までに再生可能エネルギーを電源構成の20%にするというカーター大統領の目標の象徴が太陽光パネルだった。
落成式で大統領はこう述べた。
「この太陽光発電は今から1世代後に、人類が歩まなかった道を示す珍品として博物館に展示されているか、米国民がこれまでに成し遂げた最も偉大で最もエキサイティングな冒険のほんの一部として存在することになるだろう」引用:オルタナ ジミー・カーターは気候変動を最初に認識した米大統領だった
太陽光パネルを取り外してしまったレーガン大統領
ところが、その太陽光パネルは、カーター大統領に代わりホワイトハウスの住人になった共和党のレーガン大統領によって撤去されてしまうのである。1980年11月、大統領選でカーター大統領は、レーガン氏に敗れた。日記にこうある。
「われわれが難しい問題や賛否が分かれていた問題に対して行った決定の多くが、長期的に見ると票を失うことにつながっていた。キャンプ・デービッド合意、アフリカに対する接近、キューバ難民問題、パナマ運河条約、中国との国交正常化、エネルギー立法、イラン人質問題、そしてアフガニスタンへのソビエトの侵攻など、こうした人質問題が私から票を奪っていった。投票所に行った後(中略)午後2時半頃パットと話したが、彼は、投票結果はわれわれにとってかんばしいものではなかったと告げた」(1980年11月4日)
大統領に不運だったのは、79年1月にイラン革命が起きてパーレビ国王は追放され、イランのアメリカ大使館が占拠され、人質がとられたことだった。国交断絶となり、翌年4月に救出作戦が実行された。しかし砂煙で救出に向かったヘリコプターとC130輸送機が衝突し、失敗に終わった。
米国大使館の甘い予想に惑わされ、革命直前にパーレビ国王の米国訪問を認めたことも、救出作戦の失敗と共に、カーター大統領の失態とされている。
夜、テレビの3大ネットワークがレーガン氏の勝利を打ちはじめた。カーター大統領はシェラトン・ワシントンホテルで短い敗北声明を読み上げた。イランで革命が起き、ホメイニ師の支配のもとで行われた米国大使館員らが人質になった事件は、奪回作戦が失敗し、なお釈放の目処はたっていない。それが大統領選挙に影響したことに疑いはなかった。
有害物質の汚染地浄化とアラスカの自然保護が最後の仕事
辞めていく大統領が最後に残したのが、有害物質の処理の体制を整えることとアラスカの自然を守ることだった。どちらもカーター氏が長く温めていたものだ。
1つ目は、日本で「スーパーファンド法」として知られている。有害物質で汚染されたサイトの浄化を企業に命じたり、直接実施する権限を連邦政府に与え、汚染サイトに関係する者に汚染の責任を負わせる仕組みだ。

緊急時や当事者が特定できない場合に連邦政府に措置費用が必要となるため、あらかじめ化学会社からお金を出させ、創設した信託基金(スーパーファンド)をあてることができるようにした。土壌汚染対策として日本などがお手本にすることになった。大統領はこう振り返っている。
「特別基金(信託基金)は化学会社から一種の保証金を出してもらって毒性のある廃棄物を処理しようという構想であった。この構想は私が手をつけたどのものよりも野心的なものであった。数千カ所もある毒性廃棄物処分場からアメリカ国民の健康を守ることは緊急を要したことではあったが、困難な仕事でもあった。それは国民の福祉と国土を汚染する少数の企業の利益との典型的な戦いであった」
アラスカの貴重な宝を保とう
もう1つのアラスカの自然保護だが、アラスカの広大な土地は、さまざまな利用形態が絡まり合い、無秩序な開発の危機が迫っていた。12月2日、大統領は議会で「アラスカの国益土地保護法案」の説明をした。
「われわれはカルフィルニア州より広い土地を保護地区として指定しようとしています。今回この法律で9,700万エーカー(3,800万ヘクタール)の新しい土地を公園や鳥獣保護区に加えますが、これによってアメリカの国立公園と鳥獣保護区の面積は2倍になります」
「われわれはアラスカの美しい景観とそれが持つ価値を誇ると同時にアラスカが持っている石油、天然ガス、鉱物資源、木材などを開発していくのです。この法律を制定することによってわれわれはアラスカの原野がアメリカにとって宝であり、アラスカが持つ資源がいかに貴重なものであるかを知るのです。この貴重な宝をどう保つかに、われわれの将来がかかっています」
トーマス・ジェファーソンの言葉
イランの人質問題は釈放に向け、最後の詰めの交渉が行われていた。人質が解放されたのは年が明けた1981年1月20日。ワシントンを去る前、ホワイトハウスに別れを告げようとしていたカーター氏をマックス・クレランドが訪ねてきた。彼はカーター氏が大統領になった時、最初に訪れた公式の訪問客だった。彼はベトナム戦争の傷痍軍人で、大統領の指名で復員軍人局長になっていた。
その彼が別れを言いにやってきた。ホワイトハウスでの最後の日記にカーター氏はこう記し、日記は終わっている。
「彼はトーマス・ジェファーソン の言葉を刻んだ金属の板を記念に持ってきた。私にとってのなぐさめは、私が政権を担当していた間、アメリカ国民の血が一滴も、戦争のために流されなかったということだ。私はこのことをいつまでも忘れないだろう」(1981年1月20日)
引用文献「カーター回顧録」(上下、日本放送出版協会、1982年)