”環境問題”に新しい視点と価値観を 宮﨑紗矢香さんインタビュー

”環境問題”に新しい視点と価値観を 宮﨑紗矢香さんインタビュー

昨今では気候危機やSDGsに関する情報を目にする機会が、今まで以上に増えてきました。 私たちはこれらの問題にどう向き合っていくべきなのでしょうか。

これからの気候危機との向き合い方について、若い世代の考えを「Fridays For Future」の元メンバーで、人間活動家として活躍する宮﨑紗矢香さんにお聞きしました。

就職活動で感じた憤り

――学生時代の宮﨑さんは、気候危機に関する活動を積極的に行っていたと聞いています。気候危機に関心を持ったのは、何かきっかけがあったのでしょうか。

私が最初に興味を持ったのは、気候危機ではなくSDGsでした。当時参加していた、子ども食堂の代表が頻繁にSDGsの話をしていたのです。 自分でも調べてみたら、SDGs達成度ランキングというものを目にし、1位はスウェーデン(2016~18年)であることを知りました。

以前から、北欧には教育や福祉について先進的なイメージを抱いていたこともあり、一度は行ってみたいと思っていたので、2019年の2月にスウェーデンのSDGs視察ツアーに参加しました。 スウェーデンでは、スーパーや企業などが環境に配慮した先進的な取り組みを行っていて、多くの刺激を受けました。 だから、1週間後に帰国したときは、SDGsを推進している企業に就職しようと考えました。

スーパーの冷凍庫に貼られた環境ラベル。スウェーデンの言葉で「孫のために早く扉を閉めよう」と書かれている。

しかし、実際に就職活動を始めてみると、利益追求が第一で環境対策は二の次という企業がほとんどでした。 スウェーデンで体験したことや私の考えを話しても関心を持ってくれず、中には「君の思うようには行かないと思うよ」と言う企業もありました。

「誰一人取り残さない」という原則を掲げるSDGsのバッジを付けておきながら、目の前にいる就活生の言葉を聞き入れようとしない。この矛盾に私は憤りを覚えました。 そんなときに、気候変動のリスクを訴えるグレタ・トゥーンべリのことを新聞で知りました。

その記事には、プラカードを持って立っているグレタの写真があり、私はその背景に見覚えがあるように感じました。そこは、私がつい数ヵ月前にスウェーデンのSDGs視察ツアーで通り過ぎた、ストックホルム議会前だったのです。 そして、彼女の「あなたたちは誰よりも自分の子供たちが大切だと言いながら、子供たちの目の前で彼らの未来を奪おうとしている」というスピーチに強い共感を覚えました。 就活中に私が企業へ感じた憤りと、彼女の気候危機と向き合わない大人たちへの憤りが重なったのです。

それから、すぐに行動しなければと考えた私は、気候危機に関する活動を始めることになりました。

”未来のための金曜日”に共鳴

――実際に、どのような活動をしたのでしょうか。

まず、大学の授業で学生に対し、プレゼンする機会を先生からいただきました。大学では、雨の日に傘袋が無駄に使われる、お弁当の時間にプラの容器が大量に捨てられる、など環境に負担をかけるような部分があり、学生たちのゴミ分別もかなり適当で、清掃員の方が裏で必死に分別している事実を知りました。 その状況を学生たちにプレゼンし、大学を変えるためにまずは学生が変わってみないか、と問いかけてみたところ、一部の学生からは「何も思わない」という言葉が返ってきて、私はショックを受けました。 大学でも就活でも、環境問題や気候危機について、誰も共感してくれない。この日本の現状に、私は心が押しつぶされるかのようでした。

大学で活動しても仲間は得られない、と感じた私は気候危機に関する色々なイベントに参加していましたが、そんなときにグレタの呼びかけによって結成された、気候変動対策を求める団体「Fridays For Future」に出会います。 Fridays For Futureの一員になってから、東京都に気候非常事態宣言の発表を求める請願書を提出したり、渋谷に2,800人が集まったグローバル気候マーチに参加したりしました。 私が渋谷のマーチに参加した3日後、国連気候行動サミットでグレタが印象的なスピーチをしたことで、日本のニュースでも気候危機やグレタのことが大きく取り上げられました。

宮﨑さんが活動中に掲げていたプラカードには「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と書かれ、気候危機を知りながら何も行動しない大人たちへの憤りを訴えていた。

そんな中、10月に台風19号(令和元年東日本台風)が襲来します。テレビをつければ「命を守るために最善の行動を尽くす必要があります」とアナウンスが繰り返されましたが、台風が過ぎ去ってしまったら、何事もなかったかのように日常が戻っていました。 このままでは、非日常が日常になってしまう。私は「すぐに行動しなければ」と次の週から気候非常事態宣言の署名集めを始め、11月29日には2回目のマーチにも参加しました。 署名はわずか1ヵ月で5,000筆以上が集まり、マーチも東京だけで600人、全国で2,000人が気候変動への警鐘を呼びかけました。

グローバル気候マーチに参加する宮﨑さん(2019年9月20日)。

ちなみに私は「学校ストライキ」のムーブメントに参加しながらも、大学はサボらず、むしろ学部ゼミを始め、卒論など学問に真正面から打ち込んでいました。「未来がないのに学校に行っても意味がない」のもそうなんですが、学校に行けない子どもたちも大勢いる中で、問うて学ぶ営みを享受できることを十分噛み締め、社会を見る目を養うことは、たとえ気候危機の時代だとしても、必ずや己の血肉になると思っています。

かけがえのない存在の喪失

――宮﨑さんは現在、環境活動家ではなく「人間活動家」を名乗っていると聞きました。何か心境の変化があったのでしょうか。

2019年は精力的に気候危機に対する活動をしていましたが、年が明けて2月になると愛猫を癌で亡くしました。 それまでは「ボーッと生きてんじゃねーよ!」というプラカードを掲げ、何もしない大人たちへ憤りを訴えてきたのに、このとき私はボーッとしたかったし、喪失感で無気力になってしまいました。

それにより、気候危機を理解しながら何もできない人の気持ちが、私にも実感できました。 よくあるペットロスだと思われるかもしれませんが、私にとって愛猫の死は、日常を根底から揺さぶるものでした。そして、他人には理解できないような些細な苦しみや葛藤がこの世界に溢れていると痛感し、気候危機を知りながら行動できない人の視点を知ることになったのです。

2020年の4月、デジタル気候マーチが開催され、私も写真で参加しましたが、そのとき掲げたメッセージは「そりゃボーっと生きたくもなるよ」というものでした。 活を入れたくなるときもあれば、自分の中で整理がつかなくなるときもある。そんな両義的な気持ちを抱えているのが人間なのだ、というメッセージを発信したかったのです。

デジタル気候マーチに参加した宮﨑さんの写真。本人曰くグレタならぬグレた。

今は「人間の愚かさへのまなざし」に着目しています。 気候変動について「地球温暖化は人間活動による二酸化炭素の排出増加が、地球の気温上昇を引き起こすと科学的に予測される」とよく聞きます。 私はこの文脈で使われる「人間活動」という言葉に、引っかかりを感じるようになりました。 確かに、私たちの生活から二酸化炭素が排出され、気候危機につながっています。しかし、それは人間活動そのものを否定することにもなりかねない。 職場で人間関係に悩んだり、学校で友達と衝突してしまったり、そういう些細な日常の詰め合わせが人間活動です。 それが二酸化炭素を排出しているという文脈で発言されると、人間の存在そのものを否定してしまうような危うさがあると感じます。

かつて、アルバイト先でも似たような指摘を受けたことがありました。私のアルバイト先は環境意識の高さをアピールする企業でしたが、現場では多くの無駄や環境への負担につながるものばかりでした。 それをマネージャーに伝え、現状改善を訴えたところ「宮﨑さんが言っていることは、人間がいなくなればいいってこと?」と返されてしまったのです。 人間が存在しなければいい、という話に陥りやすいのが環境問題です。でも、私は「人間は生きていていい」と声を上げたい。愚かしくても精一杯やろうとする、私たちの人間活動は尊いものです。 だから私は、人間活動を肯定しながらも、気候変動やその他の問題にも目を向けられるような「人間活動家」でありたいと思います。

境界線を解きほぐす「人間活動家」へ

――人間活動家とは、どのように気候危機や環境問題と向き合う人のことなのでしょうか。

私も正解を持っているわけではないですが、バルネラブルでいたいとは思っています。大きい主語でわかりやすく捉えられがちなところを、決してそうではないと、語る側こそが脆さを内包した存在であることを自覚し、粘り強く他者に伝えていくことなのかなと。

具体的には、環境問題という言葉をなくして、人生問題と言い換えられるようにしたいです。なぜなら、環境問題をはじめとする多くの問題は、一人ひとりがこれからの人生をどうやって生きるか、に地続きな問題だと思うからです。 また「高尚なSDGsからの脱却」も訴えたいです。SDGsで掲げられる「貧困をなくす」「不平等を解消する」といった目標は、どれも主語が大きくて実感できないし、どこか教科書的な了解にとどまっている気がします。 それよりは、もっと小さな主語を意識することが大切だと考えています。

高尚なSDGsからの脱却」を掲げて開催したオンラインイベントにて。

以前、犯罪歴がある方を雇用し、自身も非行歴がある経営者の方と話す機会がありました。 その方は「自分には特に大義とかはなくて、世の中がひたすら他の人に優しい社会になってほしい」と言っていました。 この言葉はとても突き刺さりました。高尚だけど実感できないSDGsより、ずっと真実であるように感じたのです。 Fridays For Futureでの活動経験から気候危機に警鐘を鳴らす機会が多々ありましたが、そうした話題に交わらないようなフィールドの方と話すことで「気候変動ですらない」ことも、この世の中にはあると実感しました。最終的に大事なのは、自分の実感が及ばない範囲にも、いかに耳を傾けられるか、ではないでしょうか。だとしたら、私自身が「ですらない」類いにまなざしを向け、そこで得た実感を第三者に伝えていくことで、気候危機に本質的な関心を持つ3.5%と、そうではない人との間の結節点になれるのではないか、と思っています。このように、一人ひとりが「小さな主語」で語ることで、SDGsも再解釈され、再構築されるのではないでしょうか。

人間は生きている限り、みな人間活動をしています。その意味でこの地球に生きる全員が、人間活動家です。何か特異な立場に立つのではなく、迷いや違和感を口にできるような存在でいたい。そんな想いから、両者の間に横たわる境界線を解きほぐしていきたいと思っています。

――私たちはこれからSDGsや環境問題と、どのように向き合うべきと考えていますか。

これからは、今以上にSDGsや環境問題に関する情報が耳に入ってくるかもしれません。 そんな時代にあって、耳ざわりの良い表現に流されてしまうのではなく、愚直に向き合うことが肝要だと思います。

自分の実感が及ばない話題にも目を向け、小さい主語で異質な他者と対話をすること。その先に、それまでは対岸の火事に見えていた「環境問題」が、自らの人生といかに地続きであるか自覚されてくる、切実な「人生問題」になり得るのではないかと感じています。

人間活動が招いた地球の危機と、人間活動がもたらした恩恵にあやかるような眺望。

宮﨑紗矢香(みやざき さやか)
1997年生まれ。立教大学社会学部卒。在学中に子ども食堂の活動をきっかけにSDGsに関心を持つものの、国内企業などのSDGsウォッシュの実態に疑問を抱く。その後、グレタ・トゥーンベリさんを知り、Fridays For Future Tokyoのオーガナイザーとして活動。現在は、株式会社大川印刷に勤務。共著に『グレタさんの訴えと水害列島日本』(学習の友社、2020年)、『子ども白書2020』(かもがわ出版、2020年)。

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