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公害患者さんのつくったあおぞら財団―公害の伝承と地域の「環境再生」の活動続けて30年

公害患者さんのつくったあおぞら財団―公害の伝承と地域の「環境再生」の活動続けて30年
エコミューズの名前で市民から親しまれている西淀川・公害と環境資料館
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

「公害問題が解決したら、次は地域の環境再生」――。大阪西淀川区にある公益財団法人公害地域再生センターは、「あおぞら財団」の愛称で、地域の環境保全や失われた環境の再生に取り組んでいます。大気汚染によるぜんそくなどの呼吸器に疾患のある患者さんたちが裁判で勝訴し、和解による解決金を使い、地域のためにこの財団を設立して今年で30年を迎えました。「環境再生」を旗印にした「あおぞら財団」の歩みと、活動を紹介しましょう。

ジャーナリスト 杉本裕明



エコミューズに公害資料が並ぶ

四日市同様にコンビナートなどの工場・事業所による大気汚染に苦しむ患者が多かった大阪市西淀川区、川崎市、千葉市、兵庫県尼崎市、岡山県倉敷市、名古屋南部(名古屋市南部、愛知県東海市)の6地域で患者たちは国や企業を相手に裁判を起こした。6つの裁判はすべて患者たちが勝訴し、決着した。道路公害で国や道路を管理する公団などと同時に訴えていた西淀川や川崎、尼崎、名古屋の裁判では、国と和解し、国が道路の交通量を減らすために車線の削減を検討、患者団体と話し合いの場をつくることが取り決められ、国の対策も一歩進んだ。

しかし、かつて公害を経験し、国や企業と闘った人々は年を重ね、集めた資料も散逸するばかりだ。国や自治体、企業が公害対策を進めた裏には、救済と対策を求めて立ち上がり、勝ち取った被害者たちの運動の歴史があった。それを記録した貴重な資料を保存し、後世に伝えていくことは、二度と悲惨な公害を繰り返させないばかりでなく、良好な環境を創生し、広げていく上で大切なことではないか。

そんな思いを抱いた患者さんたちが、全国の先陣を切って実現したのがあおぞら財団だった。財団のある小さな「あおぞらビル」は、国道2号と大阪府道10号の交差する歌島橋交差点そばにある。近くを阪神高速11号池田線が通る。

あおぞら財団が所有するあおぞらビル
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

あおぞらビルに足を踏み入れた。5階に「西淀川・公害と環境資料館」がある。下の階は、西淀川公害患者と家族の会の事務所が入っている。資料館は「エコミューズ」と名付けられ、大気汚染関係の公害資料を中心に各地の公害関連資料や環境関連の出版物が本棚に並ぶ。西淀川区に住む大気汚染でぜんそく患者さんたちが裁判所に訴え、勝訴した裁判記録が製本され、本棚に並んでいる。

壁には、西淀川の公害の歴史のパネルが掲げられている。座り込みやデモ行進の写真も数多い。数多くの資料から、あの時代に人々が何に苦しみ、何と闘ってきたのか理解できる。

財団の一期生として体験を語る鎗山善理子さん
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

財団の研究員、鎗山善理子さんが説明した。

「所蔵されている資料は6万点にのぼります。順番に整理し、一部はインターネットでも見ることができるように作業を進めています」

会報「あおぞら」が患者をつなぐ

「西淀川公害患者と家族の会」の会報「青空」のコピーのファイルがある。第二号には、「四日市裁判の判決にもとづいた損害賠償補償制度を創設せよ」の見出しが躍る。1972年12月に小山長規環境庁長官、黒田了一大阪府知事、大島靖大阪市長らに出した請願書が掲載されている。

四日市裁判とは、石油コンビナートのある三重県四日市市のぜんそく患者たちが、コンビナート企業6社を相手にした損害賠償請求訴訟で1972年7月、津地方裁判所四日市支部が原告9人の訴えを認め、被告企業が共同して硫黄酸化物を排出したとして、企業の共同責任を認め、賠償を命じる判決を出したことをいう。

当時は、四日市だけでなく、全国のコンビナートや工業地域の工場・事業所による大気汚染や水質汚染などの公害が激しくなり、各地で公害反対の住民運動が噴出していた。この動きに押される恰好で、国は、工場や事業所から出る排煙や排水の規制を強化する法律や法改正を制定したりし、企業も公害防止のために巨額の投資をはじめたばかりだった。

西淀川区の西隣に尼崎市があり、関西電力の大発電所や神戸製鋼所などの排出源となる事業所がある。その排煙が西淀川に流れて、ぜんそくを発症する患者を大量に生み出した。その状況を何とかしようと、公害に苦しむ患者たちが組織をつくり、公害に反対し、救済を求める運動が始まっていた。

被害者救済の法律をつくらせる力に

請願書は、当時の医療費だけ援助する患者認定制度のもとで、西淀川区内で2,709人が公害認定、四日市裁判で認められた損害賠償額を基本にした給付を求めていた。

子どものぜんそくの発症が多いとし、区内の保育所の調査結果も会報で紹介されている。それによると、436人の幼児のうち公害認定者が60人、せきがよくでるが200人、医者からぜんそくにかかっていると言われたことのある幼児は139人いた。

環境庁は、大気汚染物質を排出する企業からお金を徴収し、それを基に基金をつくり、認定患者に障害補償費などを支給する「公害健康被害補償法」をつくろうとしていた。請願書は、その動きを後押しする意味があった。

1978年に法律はできた。しかし、法律には限界もあり、患者は増え続けた。原因は尼崎市を中心とする発電所や製鉄所などの大規模事業所と、排ガスを排出する大量の車を走らせている国と高速道路公団だった。長い裁判闘争をへて、1991年3月、大阪地裁は、被告10社に賠償を命じる判決を下した。国と阪神高速道路公団は控訴し、高裁で争うが、1998年和解した。

企業が払った解決金であおぞら財団を設立

あおぞら財団が設立されたのは1996年だが、その前年の1995年3月、患者さんたちは企業9社と和解し、39億9,000万円の解決金を得ている。

この時、患者さんたちは、解決金のうち15億円を「西淀川再生基金」とし、新たなまちづくり事業につかうことを決めた。公害裁判史上、初めての試みだった。環境省のOBが語る。

「普通は裁判で勝訴し、お金を手にすると、弁護士への報酬を払って、それで終わっていた。でも、この西淀川の場合は、地域の環境改善や環境活動に使いたいという。画期的な決断に、環境省も応援することになった」

タクシー会社やめ、患者さんの組織化めざした森脇さん

それにしても、あおぞら財団を設立し、環境再生を行うという発想はどこからきたのだろうか。ルーツをたどると、当時「西淀川公害患者と家族の会」の事務局長だった森脇君雄さんと、会長の浜田耕助さんをリーダーとする、患者さんたちの公害反対運動にいきつく。

当時のことを思い浮かべながら語る森脇君雄さん
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

タクシー会社で労働争議を経験から大阪の厚生団体に誘われ、事務職員になった森脇さんの仕事は、西淀川地域に病院を建設するために、患者さんの組織をつくることだった。この地域に地縁も血縁もなかった森脇さんは、アパートを借り、地域住民を回るようになった。そこで患者さんを知り、組織して行政などに訴える必要を説き、1972年に「西淀川公害患者と家族の会」が誕生した。森脇さんが語る。

「煙を出す企業と交渉するだけでなく、廃棄物処分場建設に反対したり、地域の公害企業に公害をやめさせたりする運動をしてきました。開発計画に反対もしてきました。その時は厳密に考えなかったが、いまから思えば、それは、地域の環境を守り、地域の環境の再生につながる運動でした」

被害者の救済とともに地域の環境再生を

森脇さんが続ける。

「1995年1月に阪神・淡路大震災が起こって間もなく、企業の担当者から求められ、話合いが始まりました。和解したいという。それから何回も交渉するのですが、僕は、再生計画の話をしました。被害者に賠償するだけでなく、地域のためでもある。相手側は『これを持ち帰ります』と。これが後押ししてくれたようで、およそ2カ月の交渉をへて和解が成立しました」

森脇さんらは、裁判の頃から、こんな地域にしたいという夢を再生計画としてまとめていた。最初、絵にしたのは支援者で後に財団職員になる傘木宏夫さん(後に退職)だった。当時の絵を見ると、ビオトープが幾つもあり、「水の都」と言われた大阪の自然を意識したものとなっている。それをもとに、文章化され、何度も練り直された。

和解交渉は、すでに被告企業の幹部らと人間関係を築いていた森脇さんが担当した。最初企業側が提案した25億円が最終的に39億9,000万円まで増えたのは、森脇さんの力が大きい。そこから、15億円を患者さんの健康回復事業や地域再生に使うことを決めた。

一方、裁判では、被告10社だけでなく、車から出る排ガスの責任として国と阪神高速道路公団に損害賠償と汚染物質の差し止めを求めていた。一審では損害賠償だけ認められたが、差し止めと国の責任は認められず、控訴していたが、1998年に和解した。国と公団は道路交通の改善に力を入れることを約束し、患者さんらが、それを点検、意見交換する協議の場が設置された。

公害防止の運動にも取り組む

森脇さんが語るように、この運動が画期的だったのは、大気汚染の原因企業に賠償させるだけでなく、これ以上の公害の発生を防止するための運動を展開してきたことだ。80年代に国が、フェニックス計画のもと、大阪湾に廃棄物の海面埋め立て処分場を造ろうとしたとき、計画を変更させて公害防止措置をとらせたり、西淀川区の工場と直接交渉し、環境保全対策を提言し、採用してもらったりした。

いま、環境対策の世界では、「予防原則」が主流になっている。被害が起きる前に、対策をとり、未然防止した方が、被害者の発生を防ぐだけでなく、かかる費用も少なくてすむ。森脇さんらの運動は、その予防原則のさきがけとも言える。

環境経済学の第一人者である宮本憲一大阪市立大学名誉教授は、「他の公害反対運動ではなかなか見られない先駆的な運動だった。当時の会長の浜田さん、事務局長の森脇さんは、『公害訴訟を弁護士に委任するのではなく、患者が主人公で、自分たちが法廷闘争するんだ』との自覚を持って公害学習会を重ね、さらに『大阪公害患者の会連合会』『全国公害患者連合会』の結成につながった」と評価する。

「公害患者や市民に寄り添える医師になりたい」

財団の仕事の1つは、公害の経験の継承と伝承だ。二度と悲惨な公害を起こさないため、患者さんたちがどんな苦しい目にあい、闘ってきたのかその体験を聞き、それを伝えていくことが重要だ。財団では、エコミューズで、公害の記録を集め、多くの人びとに活用してもらうことと、患者さんに、体験を子どもたちや学生などに語ってもらう活動もしている。

自らぜんそくの認定患者でもある森脇さんが、初めて患者さんとあった時の体験談を語る。

「僕は、厚生団体の職員として病院をつくるためには、患者さんたちのことを知ろうと思いました。ある日、公園で、ソフトボールをしている子どもの輪から、仲間外れにされている子がいました。『あの子も入れたれや』というと、『あかん、あかん、ぜんそく持ちや』と子どもたちがいうのを説得し、その子を入れてもらいました」

「あとでその子に連れられて自宅に行くと、畳に、猫が爪でひっかいたような跡がありました。黒い点が線を引いたようについている。お母さんに聞くと、『この子がぜんそくで苦しんでかきむしった跡です』。僕は頭がガーンとなり、こんなことが起こらないようにしないと、と心に誓いました」

エコミューズに展示された学校家庭相互通信は、ぜんそくで学校を早退したり、遅刻したり、欠席したりした記録でびっしりだ
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

当時、7歳だった小谷信夫さんはその後、裁判の原告に参加したが、50歳で亡くなった。こうした人たちが裁判の原告となり、和解した後は「語り部」として、子どもや若者たちに伝え続けている。

この9月、大阪公立大学医学部の学生と西淀川区役所保健福祉課の職員計7人が、エコミューズを見学し、財団職員が西淀川の公害の歴史を説明した。さらに大阪公害患者の会連合会の岩本啓之さんと事務局の上田敏幸さんが、苦しかった体験を語った。

大学の医学生らが患者さんの体験を熱心に聞いた
提供:あおぞら財団

「公害患者から得た学びを医師として生かしていきたい」
「公害患者や市民に寄り添える医師になりたい」
「家庭医として地域の特色を理解して医療を提供したい」

医者の卵たちは、それぞれ抱負を語った。

活動はバラエティに富んでいる

もう1つは、地域そのものを再生するための活動である。11月、西淀川区内で「さんよど大文化祭」が始まった。1、2日の両日は「みてアート」とし、市民の写真展や、クラフト体験、ブローチをつくるワークショップ、手作りサークルの作品展、ハロウィンの仮装大会、あおぞらコンサート、凹凸の出る特殊な絵の具を使ったアートワークショップ、思い出の写真展など、51か所で催しがあった。

区の共創事業として「みてアート実行委員会」の主催だが、事務局はあおぞら財団が担う。地域に溶け込み、街の活性化をはかる活動の1つだ。これは、もともと持続可能なまちづくりを求めて始まったプロジェクトの1つだった。2010年、財団が入るあおぞらビルの1階を改修し、交流スペースとして「あおぞらイコバ」と命名し、ジャズコンサート、写真、あおぞら市などを行ったのが起点だった。これをきっかけに地域に広げようと、個人や団体によびかけ、「みてアート」になった。

「淀川環境美化・西淀川親子ハゼ釣り大会~SDGsをはじめるさいしょの第一歩」のイベントに、52人の市民が集まった
提供:あおぞら財団

9月には、「淀川環境美化・西淀川親子ハゼ釣り大会~SDGsをはじめるさいしょの第一歩」のイベントに、52人の市民が集まった。ハゼ釣りのあと、大阪市環境局職員の水質調査の様子や、淀川河川レンジャーによる、ヨシによる河川の水質改善の説明を見聞きしたあと、全員でごみ拾いした。

矢倉海岸・緑陰道路探鳥会にあつまった市民
提供:あおぞら財団

また、別の日には矢倉海岸・緑陰道路探鳥会を日本野鳥の会大阪支部と共催し、市民がサギやシギの姿を追った。干潟に生息するゴカイやエビに目を輝かせた。公害がおさまり、水質も改善し自然が徐々に戻っている。その大切さを確認する意味もあるのだろう。こうした活動は、「まちづくり」のために地域を知る活動といったほうがいいだろう。

なぜ環境再生なのか

「西淀川公害患者と家族の会」が90年代前半に外部の協力を得てつくられた「西淀川再生プラン」は、

  • 西淀川区南西部の川に挟まれた区域での、ビオトープの造成、建設残土で山を造り植林
  • 西淀川簡易裁判所跡地を生活史博物館に
  • 国道2号と国道43号の地下化と物流用のモノレールの整備
  • 「公害地域再生センター」の建設

が提案されている。結局、実現の可能性が高い再生センターの設立にたどり着く。そのために研究員を募集し、大学院を修了した鎗山さんも一期生になった。

筆者は、1996年9月に「公害地域再生センター(あおぞら財団)」が認可された頃、家族の会の会長で、財団の理事長に就任したばかりの森脇さんに会ったことがある。顔を赤らめ、森脇さんは、「患者たちが補償だけでなく、地域の環境再生に取り組む。その第一歩が資料館の開設です」と熱っぽく語った。

環境庁も応援する側に回った

西淀川公害裁判は、企業とは和解したものの、国と阪神高速道路公団との争いは続いた。裁判では国は、道路行政を担う建設省(現・国土交通省)が矢面に立ち、環境庁の職員らの反応は、同庁の天敵ともいえる建設省に対立する西淀川の患者さんたちに共感の感情をもっていたといってもよかった。

当時は、自民、社会、さきがけの3党による自社さ政権で、社会党の岩垂寿喜男衆議院議員が環境庁(現・環境省)長官として、財団が開いた集会に出席し、設立のお祝いの言葉を述べていた。

森脇さんたちは、かつて公害行政や患者救済をめぐって国と鋭く対立しながらも、環境庁職員と人間関係を築いていたことや、後の審議会会長になる、環境庁に影響力を持っていた森島昭夫名古屋大学名誉教授が、財団を支援するよう幹部に働きかけていた。

環境法の第一人者である森島さんは、四日市公害裁判の時、原告団の支援組織に入り、共同不法行為の理論を唱え、原告勝訴の判決に大きな影響を与えた人だ。財団の理事に就任した森島さんは、筆者に「公害の経験を伝え、環境再生に患者さんの組織が取り組むというのはすばらしいことだ。環境庁も知らん顔してないで、応援してあげたらどうだと言いました」と語った。

設立後、環境庁は、調査業務を財団に委託するなど、間接的ではあるが、財団を支援することになった。

エコドライブと自転車の活用を

このような状況のもとで発足したあおぞら財団は、地域に詳しい大学教授、専門家との交流を進め、資料データベース化を進めてきた。この地域の公害の跡地を確認しながら現地を見学するコースや地図を作って、行政や企業、大学などの研修・フィールドワークに利用してもらっている。

あおぞら財団のスタッフの話に聞き入る大学生たち
提供:あおぞら財団

2003年から地元の運輸業者と協力し、環境にやさしい運転をするエコドライブを進めた。アイドリングをやめる、経済速度で走る、空ふかしをやめることで排ガスは減る。地元の企業、行政と会議を持った。ある運送業者は筆者に言った。

「これまで患者と企業が話し合うことはなかった。私たちも排ガスの中で仕事をしている。一緒に進めたい」

事業所のトラックにデジタルタコグラフをつけてもらい排ガスを調べた。エコドライブを実践すると、窒素酸化物は6%、二酸化炭素は8%減ったという。

自転車を生かしたまちづくりも進めた。あおぞら財団が事務局となり、自転車愛好家と一緒に、自転車レーンを拡充した整備案を発表、自転車教育プログラムの開発普及などに取り組んだ。また、区内に廃油の回収拠点を設け、回収した廃油をハンドソープやバイオディーゼル燃料にしたりする取り組みを続けている。

環境行政冬の時代に批判浴びた環境官僚も、OBとして30周年記念集会に出席

この9 月、財団設立30周年を記念した集会があり、環境省から元事務次官の鎌形浩史さんと森本英香さんが出席、森脇さんと再会し、その活動をたたえた。

1970年代後半から80年代、日本の環境行政は「冬の時代」と呼ばれる後退期に入る。60年代から70年代の前半、激しかった公害に対し、産業界が巨額の投資を行い、国も規制を強めて、公害対策が一段落すると、産業界は、「公害は終わった」と言い、公害健康被害補償法の改正(患者新規認定の廃止)や環境基準の緩和を求め、環境庁(現・環境省)は防戦一方になる。

1978年に二酸化窒素の環境基準(1時間値の1日平均値)を、0.02ppmから0.04~0.06ppmに緩め、さらに1987年には公害健康被害補償法を改正し、地域指定を解除し、新規認定をやめた。

70年代後半の環境省の動きを、環境省の元幹部は「企業の公害対策が進み、大気汚染の改善が進んだ。にもかかわらず、認定患者が増え、企業の負担金が増える。仕組みと実態が合わず、見直しをせざるを得なかった」と語る。

しかし、これまで運動で勝ち取り、実現させた政策が次々となくなってしまうのは、患者さんたちにとって耐えられなかった。森脇さんは、長期間、東京の安い駅前旅館に滞在し、全国の患者さんたちの反対運動のセンター役をした。もともとぜんそく患者で、意識を失い、大阪に戻ったこともあった。

負担を嫌う経済界や通産省(現・経済産業省)から責められ、「環境庁不要論」が公然と唱えられた。環境の危機であった。やがて、気候変動など「地球環境の危機」の時代が到来し、環境行政は息を吹き返すのだが――。

環境省の職員は、森脇さんら全国の被害者団体から猛批判を浴びた。その中に、若かりし頃の二人もいた。苦い思い出でもあるが、しかし、こうした患者らの運動や裁判が、環境省の政策を後押ししたことも事実である。

こうして、規制強化と規制緩和がらせん状に絡み合いながらも、環境は改善の道を歩み、ともかくも青空が戻ったのである。

環境再生に向け、さらに踏み出そう

財団の理事だった宮本憲一大阪市立大学名誉教授は、いまも財団の顧問の役にある。原告患者のために、四日市裁判と同様に、西淀川裁判でも証人となって法定に立った。

宮本さんは、80年代に早くも環境再生の必要性を唱えていた。イタリアのラベンナを訪れ、コンビナートの跡地で自然再生に取り組む試みを研究していた。その提言や思いが、あおぞら財団に引き継がれたともいえる。宮本さんがいう。

「1980年代に廃棄物処分場の反対運動をしておられ、事業者と患者会の交渉に、大学のゼミ生を連れて参加したことがあるが、患者さんたちの告発が冴えて、私や大学院生が口を挟む余地がありませんでした。大阪を水の都として再生する夢をあおぞら財団に託したい」

宮本さんは、30周年の記念集会に、お祝いの文章を寄せ、活動を讃えたあと、こう結んでいる。

「今重大な転換期の時代に若い世代が平和と環境保全の自治体を作る変革の主体とならざるを得ないことを自覚し、連帯することを期待したい。あおぞら財団の未来もその主体形成に委ねられるであろう」

元理事長の森脇さんは「環境再生は、宮本先生が以前からずっと唱えておられた。先生の構想ほど大きくはできないが、やらないといけないと思った。僕らの運動に触発された他の裁判の患者さんたちもそれに続くようになった。当初考えたような大きなことは難しいが、若い研究員らに期待したいと思います」と話している。

患者の会が中心になって、デイサービスセンターが幾つかつくられた。90歳になった森脇さんも週3回、その1つに通っている。

人情あふれるこのまちに自然豊かな風景とりもどそう

あおぞら財団の石碑
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

最初にできた施設はあおぞらビルの近くにある。その入り口の横に、記念碑があった。宮本憲一氏の直筆をもとに、こう刻まれている。

「公害と闘い環境再生の夢を 滋賀大学前学長 宮本憲一」

「塞がれた灰色の空 昼間からライトをつけて走るクルマ。1960年代から70年代にかけて『公害』という言葉さえ知らない住民が次々と病気になり、公害病認定患者は7,000人を超えた。かつてこの地は日本一公害激陣地といわれ、大気汚染による“緩慢な殺人”が進行した。『手渡したいのは青い空』。1978年、住民はやむにやまれず裁判に訴えた。工場とクルマによる複合大気汚染を裁く裁判は、20年を経て勝利和解した。人情あふれるこのまちに、にぎわいと穏やかなくらし、自然豊かな風景をとりもどすためのたたかいは続く 2006年10月1日 原告団長 森脇君雄」

参考文献

『西淀川公害を語る 公害と闘い環境再生を目指して』西淀川公害患者と家族の会、本の泉社2008年
『「公害地域再生」とは何か 大阪・西淀川「あおぞら財団」の軌跡と未来』清水万由子、藤原書店2025
『西淀川公害の40年―維持可能な環境都市をめざしてー』除本理史、林美帆編著、ミネルヴァ書房2013年
『りべら』あおぞら財団2025年6月号
あおぞら財団ホームページ https://aozora.or.jp

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