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もう一つの「太陽」を見た第五福竜丸――広島・長崎の後に起きたビキニ水爆実験の被曝漁船は、東京・夢の島にいた(上)

もう一つの「太陽」を見た第五福竜丸――広島・長崎の後に起きたビキニ水爆実験の被曝漁船は、東京・夢の島にいた(上)
杉本裕明氏撮影 転載禁止

広島、長崎の原爆による被曝から9年のちの1954年3月1日。西太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁。大音響とともに、西の空にもう一つの「太陽」が浮かび上がった。

巨大なキノコ雲が空を覆い、閃光が乗組員たちを襲った。やがて、白いものがぱらぱらと降ってきた。死の灰だった。 マグロ漁の漁船に乗船していた乗組員23人が被曝した第五福竜丸事件である。水爆実験での被曝事件は世界を揺るがせ、原水爆の禁止を求める運動は一気に広がった。

その第五福竜丸が、東京都江東区の夢の島公園に展示されている。被曝事件から半世紀を超えた。第五福竜丸はいまも私たちに平和の尊さを訴え続ける。「都立第五福竜丸展示館」を訪ねた。

ジャーナリスト 杉本裕明



夢の島公園の展示館

展示館はJR京葉線の新木場駅から歩いて10分のところにある。二枚貝を合わせたような形をした展示館は、茶錆色のコルテン鋼という特殊加工の鋼材からできている。

杉本裕明氏撮影 転載禁止

財団法人第五福竜丸保存平和協会がこの展示館の管理・運営を東京都から委託されている。この展示館は無料なので、そのまま中に入ると、第五福竜丸の船体が、展示館のスペースの真ん中にどっしりと収まっていた。

目に飛び込んできたのが船尾のスクリュー。船体の曲線を追いながら、前に回ると、船首がきゅっとあがっている。波をかき分けて、いまにも動き出しそうだ。木造なので人のぬくもりを感じさせ、いまにも船員が船から顔を出しそうだ。

杉本裕明氏撮影 転載禁止

その両側の壁には、福竜丸や乗組員の写真、マグロ騒動、ビキニの水爆実験を解説したパネルなどが展示されていた。学校の社会の授業の見学や修学旅行の子どもたちが数多く訪れるというのも納得できる。

展示館を運営する平和協会の事務局長の安田和也さんがいた。「年間10万人が見学に訪れています。やはり船という現物があるから、被害がどんなものであったか実感できるのです。10万人のうち3割は子どもたちなんです。この子たちの反応は鋭い。展示館の意味は大きいと思います」

実物の船をみた子どもたちはその感性に響くものがあるようです」と語る安田和也さん。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

筆者は過去に大石又七さんに会った記憶がある。大石さんは第五福竜丸の模型を造っておられた。精巧な造りで、展示館にも模型が展示されている。安田さんによると、大石さんは神奈川県内の老人ホームで元気に暮らしているという。

大石さんは、第五福竜丸の模型をいくつも制作し、その一つが展示館に飾られている。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

大石さん語る

大石又七さんは当時冷凍士で、丸刈りの20歳。1984年から体験を語り続けてきた。著書も多く、第五福竜丸事件の語り部と言ってもよい。

その大石さんに平和協会が2019年にインタビューし、ビデオに撮った。映像が展示館で公開されている。画面に映った大石さんは、淡々とその日の出来事を語っている。

大石「降り始めて3~4時間か、もっと経っていたかもしれません。わからなかったんだよね。なにか白い物が落ちてきて、みんなキョロキョロしていましたよ」
「なんだろう?なんだろうって、みんな不思議に見ていたけど」
「わからないまま時間がすぎてしまった」
「死の灰なんてことは頭にないから」

杉本裕明氏撮影 転載禁止

――死の灰は熱かったですか? 「白い死の灰はサンゴのかけらなのに、だからささくれだっているので」
「服の中に入ったりするのでチクチクしました。かゆい感じをうけました」
「そうなる前は、みぞれが降ってきたくらいに思っていた」
「顔にあたったのを、あたったやつをちょっとなめてみると、味もない熱さもなかった」

――死の灰をあびて身体の変化はありましたか?
「頭が痛いとか気持ち悪くなったのは夕方になってからだから、降り始めて3~4時間かもっと経っていたかもしれません」 「仕事がしづらいなという気持ちでいました」

――水爆実験と知ったのはいつですか
「水爆実験とわかったのは、港に入ってからだと思います。アメリカの実験場が近くにあるということがわかったのはけっきょく港に入るまぎわだった」

――静岡県焼津に帰港するまでの二週間、乗組員の皮膚が黒ずみ、脱毛現象がおきた
「私も放射能でおこる病気がどんな病気かしりませんから。みなさん(乗組員)が、私と同じ仕事をして同じ被害を受けても片方でだんだん一人ずつ亡くなっていくという目にあわされて本当に怖かった」
「自分にいつそれがくるかわからない心配がありました。常に自分からはなれない大きな問題でした。仲間は静かに、何も言わないで亡くなっていくんですから」
「私の体のなかに放射能があるのはまちがいない。それがどんな形で表に出てくるのか、どうして死んでしまうのか知りたい」

展示館の開館には最初反対だった

――開館を知り、どのような気持ちでしたか
「私としてはやめてくれと言いたかった。こんなものを置かれたんじゃ自分が被爆者としての怯えというか、被爆者としても物が消えていくことがなくなっちゃうから、背負ちゃっているから」
「置いてもらうのは困る。やめてくれというのが本音です。しかし、それはできない消すことはできない。ビキニ事件のような大きな事件がおきても時間が経つと消えていく。人から忘れられていくと思いますが、今後ビキニの水爆実験は、放射能の事件がみえない裏側にありますから、過去のできごとではなくて、現在もっと大きく意味を広げて、大きくなってきている事件だと私は思う」
「ですから、忘れてはいけない、もっとみんなが勉強して、本当に怖いんだと言うことを知ってほしい」

大石さんは、市民は忘れてはいけない、そのために私はどこまでも語り伝え続けるんだという覚悟を感じさせる。 大石さんが見た強い光、放射能で汚染された23人の乗組員たち。当時の話を振り返ると――。

第五福竜丸に乗船していた船員たち。いまは3人が生存しているだけである(展示館のパネル)。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

9月23日には、国立東京第一病院に入院していた久保山愛吉無線長が死亡した。当時40歳。乗組員の中で最年長だった。医師団は「急性放射能症とその続発症」と発表したが、米国は水爆実験とその死との関連を認めようとしなかった。

乗組員に寄せられた多数の励ましの手紙

久保山さんが亡くなり、妻のすずさんと子どもたちは、遺骨とともに東京から焼津市にむかった(展示館のパネル)。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

23人の乗組員のうち2020年3月現在の生存者は3人。多くの人々が肝機能障害に苦しまされた。死因の大半が肝硬変と肝臓がんという。

1954年、東京の病院に入院した乗組員たちに全国からお見舞いの手紙が寄せられた。その年の8月末久保山愛吉さんが昏睡(こんすい)状態になった。病院と久保山さんの自宅にお見舞いと激励の手紙が殺到した。

展示館には久保山さんに充てたはがきと手紙が飾られていた。焼津市に住む久保山家は久保山さんが亡くなったのち、平和協会に手紙3,000通を寄贈した。その半分が子どもたちからのものだったという。

久保山家には全国から大量の励ましの手紙やはがきが寄せられた。その半数が子どもたちからだったという(展示館のパネル)。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

展示されている数枚のはがきを紹介する。

静岡9月3日消印
〈その後の御様体はますます悪くなるとのラジオや新聞などのニュースを聞いて、私達の不安はますます深まるばかりです。私達の兄や父も同じ漁師です。原水爆のおそろしさというものを感じされられます。一刻も早くお元気になるよう影ながらおいのりいたします〉

東京10月3日消印
〈娘と二人でラジオで久保山さんの死をきいた時、泣いてしまいました。悲しいというのと、くやしいというのと二つがごちゃまぜになった気持ちです。どうか力を落とさずにご家族の皆さん頑張って下さい。私達も出来る限り「原水爆禁止」の署名を行って二度とこのようなことがない様に努力します。本当ににくいのはアメリカです。みんなで力を合わせれば必ず禁止出来るでしょう。それが久保山さんへのはなむけだと思っています〉

静岡10月21日消印
〈おじさん体のぐあいはいかがですか。一日も早くなおってください。わたくしたち家中でおじさんのなおる日をいのっています。おじさんおからだをたいせつにしてください〉
さようならさちえ

〈みやこちゃんへ突然ですがごめんなさい。久保山さん。元気を出して下さい。私は貴女に同情します。私も貴女と同じ境遇だからです。というのは、私は前の戦争で父をなくしたからです科学の力はおそろしいものです。みやこちゃんのお父さんは科学の犠牲になられたわけです。ですから私は科学と戦争をにくんでいます。でも私達はにくしみを投げつけずに平和への道の発見に努力するのが正しいのです。日本人はみな戦争をきらっている事はいうまでもありません。しかし大人は何をするかわかりません。遠くはなれていても私達は心だけはかたく結んで平和を守ろうではありませんか鳥取県の一少女〉

船員たちが闘病生活を続ける中、第五福竜丸が持ち帰った水爆実験の灰は静岡大学などで分析され、多くの放射性核種が確認された。福竜丸が捕ったマグロだけでなく、当時同海域で操業し、水揚げしたマグロも汚染され、市場は暴落、漁業関係者に深刻な打撃を与えた。多くのマグロから放射能が検出され、廃棄処分された。それを捕って被曝した多くの漁船の船員らの健康に影響がなかったのだろうか。

3月下旬、水産庁は水産講習所の船を出して科学者らを乗船させ、ビキニ海域で調査を開始した。船に積み込まれた放射能を測定するシンチレーション・カウンターは、理化学研究所の研究員で日本の放射線研究の第一人者、岡野眞治さん(理学博士)が2年かけて開発したもので、当時日本にはこの1台しかなかった。岡野さんはそれを船に持ち込み、放射線を計測し、深刻な海洋汚染が起きていることがわかった。その後2次調査も行われ、プランクトンやイカ、魚に高濃度で汚染されていることもわかった。ちょうど核実験の時期と重なったからだったという(『第五福竜丸は航海中』より)。

岡野さんは同著への寄稿文でこう書いている。
「調査の成果は、国際的にも注目されることになる。特に米国の関係機関、関連研究者が調査研究結果の内容を把握するため、1954年11月15日から19日、日本学術会議の会議室で、放射性物質の影響を利用に関する日米会議が行われることとなった。この会議の内容から、米国は真剣に海洋放射能汚染を認識し、翌年タニー号による追跡調査が行われて、調査の成果と海洋汚染の内容が再確認されたのである」

参考・引用文献
第五福竜丸は航海中-ビキニ水爆被災事件と被曝ばく漁船60年の記録(公益財団法人第五福竜丸平和協会)
証言・私の昭和史⑥(三國一郎、旺文社)
朝日新聞東京本社都内版(1993年10月3日付)

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