『東京古書組合百年史』からリユースの原点、古書店の歴史をたどる(上)

『東京古書組合百年史』からリユースの原点、古書店の歴史をたどる(上)
古書店は街に溶け合っている
杉本裕明氏撮影 転載禁止

1920(大正9)年に創設された東京都古書籍商業協同組合が100周年を迎えたのを記念して、『東京古書組合百年史』が昨年夏に刊行されました。江戸時代初期に始まったと言われる古本屋の成り立ちとその歴史をひもときながら、古本屋の過去、現在、未来について熱い思いがこもった一冊です。

ネットに押され、紙による出版物が減少の一途をたどる中、古書業界も売上と店舗数を減らし続け、厳しい状況にあります。若手の店主へのアンケート結果や、古書店の魅力にひかれてこの世界に飛び込んだ若手の古書店主の声など、古本の世界の新しい息吹も伝えています。

682頁の大著に記された古書店の歴史をひもときながら、東京・神田と新宿・早稲田通りの古本街を歩いてみました。

ジャーナリスト 杉本裕明



ユネスコ無形文化財に登録

②「私が理事長だったときに、百年史の編纂を提案しました」と語るけやき書店の佐古田亮介さん
杉本裕明氏撮影 転載禁止

2016年、協同組合は、ユネスコ無形文化財に登録された。ドイツがユネスコに「協同組合」を申請して無形文化財に登録され、後に続くところも登録された。東京古書組合は神田支部など7支部で組織され、556人の組合員がいる。『百年史』の編纂委員会委員長で、けやき書店代表の佐古田亮介さんは、「世界に誇る『古書組合』という存在」と題し、こんな序文を寄せている。

〈「協同組合において共通の利益を形にするという思想と実践」が認められ、「コミュニティづくり、雇用の創出、都市の活性化など、様々な社会的に解決策を編み出していける」と評価されています。世界で百カ国以上、十億人の組合員がいます。東京古書組合員もその一員なのです〉

〈新刊書店と違い、問屋がない古書業界において、組合員(古書店)同士が本を融通し合うことで助け合ってきたのです。まさに「相互扶助」です。この仕組みを元に活動している「古書組合」は、古書市場を持つという世界に類を見ない、誇るべき協同組合組織と言えるのではないでしょうか〉

筆者が、神保町の靖国通り沿いにあるビル6階の「けやき書店」を訪ねると、本に埋もれるようにして、佐古田さんが本の整理に没頭していた。出版のきっかけを尋ねた。

「古書組合が50年を迎えた時に『五十年史』が発刊されていますが、その後の出版はありませんでしたし、またやろうという人もいなかった。そこに私が組合の理事長になったのは2017年ですが、組合結成100周年が迫っていました。そこでやらなきゃいけないと、理事会に提案、承認を得て、翌年の総会で了承してもらいました。編纂委員会をつくり、本づくりを進めましたが、理事会での承認から発刊まで3年半かかりました」

評論家の鹿島茂氏に執筆を依頼

「東京古書組合百年史」
杉本裕明氏撮影 転載禁止

『五十史』で述べたあとの50年間を中心にまとめるにしても、前の50年の歴史に加え、古本屋の成り立ちも知ってほしい。そんな全体像が書ける人は一1人しかいない。佐古田さんの脳裏に浮かんだのが鹿島茂さんだったという。

フランス文学者、評論家として知られる鹿島さんは、神田神保町に暮らしたことがあり、膨大な古書の収集家としても知られる。神田神保町について縦横に論じた『神田神保町書肆街考-世界遺産的本の街の誕生から現在まで』(筑摩書房)を著しているが、その出版記念会に佐古田さんが招待されたことがあり、面識があった。

「雑誌『ちくま』で6年半連載されたものをまとめたもので、りっぱな本です。古書の世界に詳しく、鹿島さんにお願いすることにしました」

鹿島さんは快諾した。

本づくりには、プロの編集者が必要である。この時、編纂委員会の副委員長としてその仕事を担ったのが、たなべ書店店主の妻の田辺真知子さん。出版社で編集の仕事に携わったことがあり、本を何冊も手がけている。その後はフリーのライターとして、組合の月報の仕事を引き受けていた。佐古田さんは、「私が組合の機関誌部の理事の時、古書月報などを一緒に作成していたので、田辺さんの仕事ぶりを知っていました。実力がある方なので、今回もお願いしました」と言う。

古本屋の始まりは?

『百年史』の第一章は、「鹿島流・古本屋はいかにして生き続けたか」と題する鹿島氏の寄稿文だ。古本の世界に精通し、愛してやまない鹿島さんの筆は、平安時代にまでさかのぼる。鹿島さんが描いた古本の歴史をたどってみる。

書物の売買や移動に関する証言が歴史的資料としてはじめて現れるのは、平安時代の1018年に藤原定信が、物売りの女性から小野道風の『屏風(びょうぶ)土代』を購入したとの記述によるという。鹿島氏は、古書専門の誠心堂書店主人・橋口侯之氏の著書を引用し、〈これが古本売買の資料の最古のものである〉としている。

当時は、写経を仕事にしている人(経師という)がいたが、その女性はその夫の妻だった。この経師が広い意味での本屋の起源だと鹿島氏はいう。

そして広い意味での本屋が京都に現れたのは、江戸初期のこと。「書林」と呼ばれる本屋は200軒あり、新刊書と古書の両方を販売していた。

江戸時代初期には、それまでの木版による製版印刷から、活字(金属や木に文字を彫り込んで判子のようにしたもの)による印刷が行われていた。

やがて新刊書を出す本屋は、海賊版を防ぐために「仲間」と呼ばれる同業組合を結成した。江戸でも急速に広がり、組合をつくると市を開き、本の取引が始まった。次第に古書の販売を専業とする古書店も増えていく。江戸に咲いた出版と本屋の文化を支えたのは武士であり、町人だった。武士は漢籍など難しいものを読み、町人は小説を好んだ。

明治時代に突入し、西洋から印刷技術が導入されるが、没落した武士によって減った売上を買い支えたのが、古書を買いあさる外国人だったという。

神田神保町古書街の成立

明治10年代になると、古書業界に大きな影響を与えたのが、東京帝国大学などの大学だった。

〈授業で使う洋書は高額だったので、学生は急に入り用ができるとこれを金に替えることが多かったが、この需要に応えたのが東京大学のお膝元だった、神田神保町に誕生した洋古書店だった。その第1号は出版社として成業中の『有斐閣』である〉

その4年後には神保町に『三省堂』が開店した。古書店として出発するが、やがて教科書と辞書の出版に乗りだし、現在への道を開いた。

明治20年代に入ると、東海道本線が開通し、それを通じ、多くの古書が東西を行き来するようになった。それまでの古書店と言えば、江戸時代以前の古典を扱うものとされていたが、さきの『有斐閣』や『三省堂』のような洋装本を扱う新興古書店が次々と現れるようになった。神保町の店で腕を磨いて新規開店する人が相次ぎ、神保町は古書のまちとしての体裁を次第に整えていく。

神田・靖国通りを中心にした古書街の案内図
杉本裕明氏撮影 転載禁止

明治30年代には道路が整備され、靖国通りを市電が走り、大正2(1913)年の大火で神保町の書店の分布は大きく変化した。こうして道路を挟んで70軒近くの古書店がひしめき合うようになった。

岩波書店は古書店がスタートだった

岩波神保町ビルにある岩波ホールも閉館間近だ
杉本裕明氏撮影 転載禁止

神田神保町の交差点近くには、有斐閣と並んで岩波書店の本社ビルもある。そのそばの建物には映画ファンなら誰しも知る岩波ホールがある。

その岩波書店は、大正時代に古本屋としてスタートした。『神田神保町書肆街考』はこう紹介している。岩波は自伝でこう述懐する。

〈人のため必要な品物をなるべく廉価に提供すれば人々の必要を充たし、また自分の生活も成り立つ、とすれば商売必ずしも卑賤ならず〉

神保町交差点を歩き始めると、古書店が幾つも
杉本裕明氏撮影 転載禁止

大正2年の大火で焼けた古本屋が自分の店の隣に貸店を新築したのを知り、古本市で大量の古本を買い付けると、大八車いっぱいに乗せて開業にこぎつけた。資金は資産家の長野の実家に工面してもらった。できるだけ高く買って、できるだけ安く売る「誠実真摯」をモットーにし、その「正価販売」が当たった。

業績を伸ばした岩波書店は、1年後には出版に乗りだし、夏目漱石の『こころ』の版元となり、出版事業の橋頭堡を築いたという。

東京古書組合の結成と敗戦からの復活

江戸時代から始まった古本屋同士が売り買いして調達する、いまのオークションにあたる市は市会と呼ばれ、明治20年代に入ると、不公正な運営がされるようになっていた。

そこで改革派の書店が立ち上がり、「神田書籍商同志会」を結成、市会の運営を手がけるようになった。大正5(1916)年に長屋を買い取り、「東京図書倶楽部」を創設。大正9(1920)年には「東京古書籍商組合」が設立され、400ほどの古書店が参加した。

大正10年頃の神田古書街(百年史より)
杉本裕明氏撮影 転載禁止
岩波書店、有斐閣の名前が(百年史より)
杉本裕明氏撮影 転載禁止

組合は市会と別組織だったが、第二次大戦の統制強化のもと、交換会と名を改め、組合の傘下となった。

昭和に入り、不況の嵐が吹くが、職を失った人たちが次々と開業し、昭和2年に575人の組合員数は7年には1207人にまで増えている。

敗戦を迎えた。下町の古書店の多くは焼け出されたものの、

〈空襲を免れた神田古書店街は我が世の春を謳歌した。中でも洋古書の専門店は仕入れる先から飛ぶように売れた〉

昭和23(1948)年、空前のブームが訪れた。GHQによる民主化改革によって、大量の古本が古書店に流れ込み、続々と設立された大学が図書館に本を整備するため、神田の古書店街に求めた。

昔の東京古書会館と東京図書倶楽部(百年史より)
杉本裕明氏撮影 転載禁止

市会は「交換会」と名を改め、多くの本が業者間でやりとりされ、各店舗はその品揃えを充実していった。昭和22(1947)年には東京都古書籍商業組合の設立総会が開かれ、新たに東京古書会館が建設された。

耐久消費財から消費財に?

鹿島氏は、このように平安時代から1970年までの足取りをたどるが、昭和20、30代まで「耐久消費財」だった書籍が、昭和40年代前半の「全集・百科事典ブーム」を最後に耐久消費財であることをやめたと記している。耐久消費財だから成り立っていた古本屋は、

〈消費財となってはリサイクルのしようがないから、商売として成り立たないのである〉

しかし、古本屋は消滅しなかった。消費財として大量廃棄された雑誌が、漫画ブームのなかで価値をよみがえらせたと、鹿島さんは言う。

繁栄と発展の昭和の時代を経て、平成の時代に入ると、古書店を大きな試練が待っていた。

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