そして、藤前干潟は守られた インサイドストーリー①
藤前干潟を守る会提供 転載禁止
「いま振り返る藤前干潟保全の歴史」と題した藤前フォーラムが2023年2月19日、名古屋市の環境省稲永ビジターセンターで開かれました。この日のゲストは、河村たかし名古屋市長。筆者もフォーラムに参加し、河村市長にいろいろ質問しました。
藤前干潟は、名古屋港の奥部に奇跡的に残った干潟で、約100ヘクタールの面積があり、シギ、チドリなど大量の渡り鳥が飛来し、餌となる豊富な生物が生息する野鳥の楽園です。かつては、名古屋市がこの干潟を最終処分場にし、ごみで埋め立てようと計画しました。それに藤前干潟を守る会など自然保護団体が反対運動を起こしました。
埋め立ての最終決定がなされる寸前に、当時の環境庁(現環境省)が動き、埋め立てを厳に慎めとする意見書を市長に突きつけ、市は埋め立てを断念、方向転換し、ごみ減量に積極的に取り組むようになりました。
いまも、全国各地で、開発か自然保護かをめぐって、さまざまな軋轢(あつれき)と紛争を生んでいます。どのようにして藤前干潟が守られたのか、その経過と真実を知ることは、意味のあることではないでしょうか。河村市長の「証言」をひきながら、藤前干潟の物語を描きます。
ジャーナリスト 杉本裕明
名古屋港にすばらしい干潟があった
名古屋駅からあおなみ線に乗って南下すること約20分。野跡駅で下車し、海に向かう。公園を突き抜けると、名古屋港の奥部に出た。波は穏やかで、湾の入り口を見ると、東邦ガス、川崎重工業、三菱自動車の工場や、大企業の倉庫群、さらに中部電力西名古屋発電所。近くの知多半島には日本製鉄、大同特殊鋼、愛知製鋼の製鉄所。日本を代表する中京工業地帯の工場群が広がる。
そんな重工業の集積地である名古屋港の最も奥まったところに、奇跡的に残った藤前干潟。その姿は、いつまでも穏やかである。海鳥が一羽、すーと飛び去った。この港区稲永の一角に、環境省の稲永ビジターセンターと、名古屋市の野鳥観察館が並ぶ。
名古屋市港区にある環境省の稲永ビジターセンター全景杉本裕明氏撮影 転載禁止
いずれも、委託されたNG0が管理・運営し、環境省は稲永ビジターセンターのほか、藤前干潟の最奥部にも、藤前活動センターを持つ。その両センターの管理・運営を委託されているのが、NPO法人の藤前干潟を守る会だ。両センターでは、パネル展示などによって、藤前干潟の保護の歴史や、飛来する野鳥や生息する生物についてわかりやすく解説。「ふれあいデー」「クリーン作戦」などのイベントも開催され、多くの市民が訪れたり、環境教育がされたりしている。
稲永ビジターセンターの1階はパネル展示と集会室など。2階から観察する杉本裕明氏撮影 転載禁止
藤前干潟は、2002年11月に、世界の重要な湿地を保全するためのラムサール条約登録地になり、国はこの地区を鳥獣保護区、特別保護地域に指定し、鳥獣の捕獲や埋め立てなどの開発行為を禁止している。
すぐ近くにそびえる巨大な工場群がありながら、藤前干潟はどうやって開発から守られたのか、その歴史を振り返ってみたい。
「いっしょにやろまい」
藤前フォーラムが開かれた会場で、市民を前にした河村たかし名古屋市長が、1998年当時のことを振り返り、語り出した。
「(1998年の)いつだったか、環境庁の小島敏郎企画調整局企画調整課長から、藤前干潟のことで頼まれたんです。彼は岐阜出身ですが、私と愛知県の旭丘高校の同窓生。次官になる前に、地球審議官(事務次官級)でやめましたが。どこか、忘れましたが、ある日、会った時、『藤前どう思う』と聞かれました」
「私の実家は、愛知県で古紙屋やっていました。リサイクルのプロです。『ごみから紙やら(再利用できるものを)取っていったら、埋めるものがなくなる』と言ったら、『そうか』と。そこで、『条件がある。藤前干潟は、名古屋の問題で、しかも、あのころには、埋め立てするとほぼ決まってしまっていたから。地元で(埋め立てに反対し)闘ってくれる人間がいないと困る』と言われた。私は『地元だから(埋め立て反対運動を)やる』と言った」
「小島さんからは、自民党の誰かを口説いてくれという話がありました。私は、古紙屋という零細企業をやっているから、頭を下げることもできます。私が小島さんに言ったのは、『梯子(はしご)はずさんだろうな』ということ。役人が一端きめたことを変えるのは大変。動いて一緒にやって、絶対、梯子はずさんやろうな、と確認し、『いっしょにやろまい』となりました」
藤前干潟を守るために活動した衆議院議員時代を語る河村たかし名古屋市長杉本裕明氏撮影 転載禁止
河村さんは、当時、新進党の衆議院議員。一橋大学を出て、家業を手伝いながらやがて、政治家を志望。民主党委員長の春日一幸氏の秘書を経て、自民党の宏池会の新人(無所属)として国政選挙に立候補、落選するものの、1993年に日本新党から出馬し、初当選。日本新党が合流した新進党に移った。環境庁から、反対運動に誘われた時は、無所属となっていた。
地元選出の国会議員の趨勢(すうせい)が埋め立て容認と見られる中で、河村代議士は政党の姿勢にとらわれない希有な存在だった。
埋め立て計画に「野鳥の楽園を奪うな」
この頃、環境庁では、幹部らが、藤前干潟を廃棄物の埋め立て処分場にしようとする名古屋市の計画をどうしたらつぶせるか、頭を痛めていた。
名古屋港は神戸、横浜に次ぐ第3の港で、愛知県と名古屋市が共同で設立した名古屋港管理組合が、埋め立て事業を進め、埋め立て地に工場を誘致し、工業地帯の一翼を担ってきた。藤前干潟は、海面であるのに、なぜか、土地登記が認められ、不動産業者らによる投機の対象となっていた。
西1区と呼ばれる藤前干潟は、1965年に埠頭(ふとう)用地の造成計画に位置づけられていたが、70年代のオイルショックで計画は頓挫すると、名古屋市が76年からごみの埋め立て処分場にするための調査にかかった。
名古屋市は、一方で岐阜県多治見市に土地を確保し、最終処分場を建設した。しかし、それだけでは将来、市のごみを処理できない。81年に名古屋港管理組合が藤前干潟のある西1区(101)ヘクタール)を廃棄物埋め立て用地とする港湾計画を策定すると、市は、3年後の84年に、藤前干潟(105ヘクタール)を最終処分場にする計画を発表した。家庭から出た廃棄物と産業廃棄物を持ち込むとしていた。
その計画を知り、反対ののろしを上げたのが、1987年に結成された「愛知県鳥類保護研究会」。代表の辻敦夫さんは、後の藤前干潟を守る会の代表である。名城大学の助手として数学を教えながら、野鳥の観察を続け、愛知県の三河湾に広がる汐川干潟(しおかわひがた)の保全活動に力を注いでいた。朝日新聞名古屋本社版(85年1月8日付朝刊)は、「野鳥の楽園を奪うな」の大見出しで、研究会の浅見忍さんの談話を掲載している。
「ごみを埋め立てれば、海が汚染される上、貴重な干潟の4分の1がなくなる。干潟は、自然界の循環に大切な役目を果たしており、埋め立ての影響は大きい」
これに対する市幹部の談話は「ごみ捨て場はもう西区しかない。野鳥ファンのみなさんとも十分話し合い、納得してもらうつもりだ」。
10万6,000人の反対署名集める
市は、反対運動が盛り上がってきたことと、藤前干潟を埋めると、そこに注ぎ込んでいた新川の流れを悪くすることから、当初の105ヘクタールの埋め立て面積を70ヘクタールに縮小し、計画を進めようとしたが、辻さんが代表となった「名古屋港の干潟を守る連絡会」が署名運動を展開し、91年6月、市議会に10万6,000人の反対署名簿を提出、保全を訴える請願を出した。
この請願には、自民党の渡辺アキラ議員など各会派の団長が紹介議員となっていたこともあり、市は、計画を52ヘクタールに縮小した。「これで決まりか」と思われたが、時の運が、辻さんに味方した。1993年6月に、ラムサール条約締約国会議が北海道釧路市で開かれ、開発計画で重要な湿地が危機に瀕(ひん)していることを各地の環境NGOが会議で訴えたのである。
東京湾の三番瀬(千葉県が商業施設・下水処理施設を計画)、九州の諫早湾干潟(農水省による干拓)、そして藤前干潟などである。辻さんは、必死で、豊かな生態系を有する藤前干潟の保全とラムサール登録湿地にするよう訴えた。ラムサール条約とは、1971年にイランのラムサールで開かれた会議で採択された「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」のことで、多様な生態系を持つ湿地の保護と保全が目的だ。
稲永ビジターセンターの前に藤前干潟が広がる杉本裕明氏撮影 転載禁止
これに基づき登録湿地になると、国は保全を求められ、この時点では、釧路湿原、ウトナイ湖など数カ所しか登録されていなかった。環境庁の幹部は、「登録湿地にするためには、鳥獣保護区にし、狩猟と開発の禁止が担保されないといけない。事業官庁や自治体が開発計画を持っていると、鳥獣保護区の設定ができず、登録もできない。藤前干潟も三番瀬も諫早湾干潟もいずれも重要な湿地だが、現状は難しい」と話していた。それでも海外に向けてアピールし、それをマスコミが新聞やテレビで大きく報道することで、全国的な関心の高まりが生まれようとしていた。
市長選に打って出た自然保護活動家
「もう黙っていられない」
1994年4月、辻さんは、名古屋市長選挙に打って出た。環境保全を求める市民団体から押されて出馬した辻さんは、記者会見で、こんな決意を語った。
「破局へ向かう『使い捨て社会』を続けるか、本来の環境を取り戻し、『循環型社会』を築くか、未来への選択をしなければならない。藤前干潟がごみの埋め立て地になる前に、取り組まなければと思った」
市民ボランティアたちが辻さんのもとに集まった。藤前干潟に近い堤防下の広場で行った出陣式には、「名古屋発環境宣言」と書いた幕が立ち、自然保護団体15団体から約300人が結集した。その中には、建設省(現・国土交通省)が進める三重県の長良川河口堰(かこうぜき)建設に反対するアウトドアライターの天野礼子さんの姿もあった。
結局、選挙は、現職の西尾武喜氏の圧勝で終わった。その結果を見越したように、3カ月後の1994年7月、市の土地開発公社が藤前干潟の土地所有権を有する不動産会社から117ヘクタールを47億円で買い取った。この不動産会社が前の所有者から購入した代金はわずか2億5,000万円。わずか20年足らずで20倍近い値に跳ね上がったのである。
さらに、市は、この3年後の97年7月、土地開発公社から、57億円で買い取るのである。この10億円の差額のうち、9億円は東海銀行への金利として支払われた。この巨額のもうけをもたらしたのは年利8%という高率の設定にあった。
内情に詳しい関係者はこう語った。「旧民主党系の市会議員が、市に購入するよう迫った。この議員は会社を幾つか持ち、廃棄物処理で利権を持っていたと言われています」
公有水面埋め立て法の手続きとは
名古屋市が買い取った藤前干潟の土地は、そもそも公有水面である。春分、秋分の満潮時に海面下に没する土地は公有水面とされ、不動産会社が買い取っていた土地は117ヘクタールのうち、満潮時に干出(海から顔を出すこと)しているのは1%しかなかった。
こんなものは、土地とは言えず、所有権は抹消されるべきものである。ところが、不思議なことに、藤前干潟の土地の「公図」が名古屋法務局に存在しなかった。抹消するためには、公図をもとに土地の境界線を確定し、始めて所有権を抹消できる。
実は、名古屋市は、そのことを知らずに、藤前干潟を購入していた。市が、埋め立て処分場にするためには、この土地を放棄し、国所有の「公有水面」に戻すことが必要になる。ところが、いざ、放棄しようとしたが、公図がないことがわかり、大問題となった。結局、市は、明治17年の灌漑(かんがい)予定地として描かれた絵図を見つけ、昔は土地、その後、何らかの自然現象で海になったとの理屈をつくり、名古屋法務局と交渉を続けた。
公有水面である海を埋めたて造成する際には、公有水面埋め立て法にもとづく手続きが必要だ。埋め立てを行う出願人は埋め立て免許の出願を免許権者(大半は知事だが藤前干潟の場合は名古屋港管理組合の長)に行い、審査に入る。一般公衆に告示・縦覧し、利害関係者、地元市町村長、関係行政機関の意見を聞き、意志決定する。ただし、藤前干潟は、国が認可した名古屋港に位置するため、国土交通大臣(当時は運輸大臣)が内容を審査し、さらに環境大臣の意見を聴取し、認可の意志決定を免許権者に伝え、免許権者はそれを出願人に伝えるという手続きになる。
免許権者の管理組合の長は、愛知県知事と名古屋市長が交代でなっており、このままではお手盛りの判断ができるが、運輸大臣という関門がある。しかし、環境省は、この手続きで、運輸大臣から意見を聞かれてから意見を述べていては遅いと判断した。それは、諫早湾干潟の干拓事業の認可をめぐって、農水省に対し、手痛い敗北を喫していたからであった。
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名古屋市は、名古屋港に最後に残った藤前干潟を埋め立てごみの最終処分場にする計画を着々と進めていました
名古屋市は、名古屋港に最後に残った藤前干