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何でも捨てられる「ダストボックス」を廃止した東京・府中市の理由―高リサイクル率化の課題は生ごみと廃プラ対策―(上)

何でも捨てられる「ダストボックス」を廃止した東京・府中市の理由―高リサイクル率化の課題は生ごみと廃プラ対策―(上)
ペットボトルの選別ライン。ペットボトルは中身もキャップもなくきれいだ。府中市のリサイクルプラザ
杉本裕明氏撮影 転載禁止

東京都府中市といえば、東京競馬場、リーチ・マイケルで知られるラグビーの東芝ブレイブルーパス東京の本拠地、サントリーモルツを製造し、見学者が引きも切らないサントリー武蔵野工場――。そんな府中市が家庭ごみの減量とリサイクルを進めている。リサイクル率38%は、全国平均の19.9%の2倍近い。

しかし、かつてはリサイクルの劣等生だった。その主な原因は、どんなごみでも受け入れてくれる「ダストボックス」にあった。集積場に置かれた鉄製の頑丈な「ダストボックス」は外から見えず、いつでもここに投げ込むことができた。「ごみ減量」の住民意識が育たないと、東京・多摩地域の自治体が次々と廃止する中、「市民の8割が支持している」と最後までこだわった。

それが、突然、廃止が決まり、個別収集とごみ袋の有料化に踏み切り、ごみ減量にカジを切った。結果は4分の1のごみ減量の成果となった。いまは、可燃物に含まれる生ごみ対策と廃プラスチック対策に取り組もうとしている。そんな府中市の歴史を振り返ってみよう。

ジャーナリスト 杉本裕明



府中市の自慢の1つは、市民に便利な「ダストボックス」だった

府中市は、人口約26万人。京王線で新宿から30分弱と便利がよく、マンションが立ち並ぶ。休日には、東京競馬場は競馬ファンで埋まり、市はラグビーのまちを掲げ、様々なイベントが繰り広げられている。建て替え中の市役所の近くには参拝客で賑わう大國霊(おおくにたま)神社――。

府中市のごみの流れを示したチャート図
府中市のホームページより

そんな府中市だが、家庭ごみの処理をめぐっては、かつては多摩地域の劣等生だった。その主因は鉄製の頑丈、な「ダストボックス」だった。可燃ごみは水色、不燃ごみはオレンジ色の2種類あり、最盛期には、水色が8,276個、オレンジ色が6,542個の計14,818個あった。中には道路の歩道脇にも置かれ、通行の邪魔になっていた。

市は、このダストボックスの製造費4~6万円と維持管理費として置かせてもらう地主に1個年12,000円の謝礼金を払い、年間で計2500万円の税金の支出になっていた(2006年度)。府中市が長らくダストボックスにこだわったのは、府中市民が存続を望んでいたからだった。

多摩地域のごみ受け入れの処分場建設めぐって紛争

多摩地域の市町村は30あるが、そのうち26市町で一部事務組合の東京都三多摩地域広域処分組合を1980年に設立、多摩西部の日の出町に、最終処分場の矢戸沢処分場(1984年~)を持っていた。

しかし、90年代に遮水シートが破損し、汚水が外に流れた疑惑が持ち上がり、その後の猛毒ダイオキシンが社会を賑わすと、焼却灰に含まれるダイオキシンが問題となった。ちょうど、組合が新しい二ツ塚処分場の建設計画を進めている時期で、建設反対の市民運動が起き、建設差し止めなどの裁判闘争が繰り広げられた。

汚水漏れの疑惑は、調査の結果、プラスチック添加剤が排水に含まれていたが、遮水シートの破損は否定された。

建設差し止め訴訟は原告・市民側の敗訴に終わったが、建設予定地の一部は反対派の共有地で、都は処分場計画として前例のない土地収用法を適用、反対派の怒号の中、力ずくで収容したという経緯があった。

この事件は、26市町と都に、「燃やして埋めよ」という安易な考え方の転換を求めることになった。26市町も日の出町に対し、39億円の地域振興費をはじめ様々な協力をしながら、町から「次の処分場はもう認めない」と言われていた。

当時の助役は筆者に「こんなトラブルはこりごりだ。何でも埋めれば良いという考え方を改めてもらわないと困る」と吐き捨てた。一方、裁判やトラスト運動の中心となった「日の出の森・トラストの会」のメンバーは筆者に「裁判で闘うが、行政側に何でも捨てればよいという考え方を改めさせた意義は大きかった」と語った。

自治体が「ごみ改革」に乗り出した

これは、当時、国が進めていたリサイクル関連の法制化の流れと相まって、ごみ減量とリサイクルは、時代の要請となったのである。

2001年、多摩地域市長会は「日の出町の処分場の逼迫から、ごみ減量とそのための方策としてごみ袋の有料化」を申し合わせた。

この前後から、ごみ減量化のためにごみ袋の有料化、ダストボックスの廃止、戸別収集の3点セットを採用する「ごみ改革」が進められ、1998年10月に青梅市が有料化を実施すると、2000年10月に日野市、2001年6月に清瀬市、2002年4月に昭島市と福生市、同年10月に羽村市と東村山市、2004年4月にはあきる野市と調布市、同年10月には稲城市と八王子市、武蔵野市が続いた。そして、その際、ダストボックスも廃止された。

反応しなかった府中市

しかし、府中市の対応は違い、「ダストボックスの堅持 」を打ち出していた。当時、筆者が、オレンジ色のダストボックスを調べると、廃パソコン、アイロン、電球、電気ポット、鉄アレイ、風呂のマット、布団、簡易ボンベ、廃プラスチック、紙屑(くず)、ひどい場合はパン屑まで。ありとあらゆるものが捨てられていた。

水色のダストボックスもひどい。まず、蓋がいつも半分開いた状態でぎゅうぎゅうに詰め込まれている。その上に、生ごみが詰められたビニール袋が積まれている。可燃ごみと不燃ごみの2分別すら満足にできていないのである。

府中市では可燃ごみのダストボックスは、1966年に天神町と幸町をモデル地区にして導入を開始、2年後の1968年に全域に広げた。クレーン車を用意し、ダストボックスをつり上げ、逆さまにし、中のごみを移す方式だ。手を汚さず、ごみを移動できる利点があった。

筆者は府中市民だが、当時、自宅の近くのダストボックスでこんな光景に出くわしたことがある。ボックスの前に乗用車が止まり、車から降りた男性が5つの大きなごみ袋をオレンジ色と水色のダストボックスに投げ込んだ。そして何食わぬ顔で車に乗り込み、西の方向に走り去った。西とは、国立市と立川市の方向だ。

府中市の担当者は「家庭ごみのうち不法投棄は2割あるのですが、大半が他市からの持ち込みです。こちらで調べたら国立市民とわかり、処理を求めたこともあります」と語った。

何でも入れ放題で、誰が捨てたか確認の難しいダストボックスは不法投棄の温床でもあった。いつでも、なんでも捨てられる安心感から、ごみを減らそうという気持ちに市民はならない。処分場が逼迫する多摩地域では、上記のように、90年代末から「ダストボックスはごみ減量の敵」として、廃止する市が相次いでいたのに、府中市は逆の道を歩んでいたのである。ごみ減量策を検討する審議会も同様であった。

「地域全体でダストボックスを守る」と審議会の答申

2003年12月、府中市の廃棄物減量等推進審議会(会長・岡山隆之東京農工大学教授)はこんな答申を野口忠直市長に提出していた。

「ごみ50%減量とリサイクル50%達成に向けた今後の方策」と題し、マイバック持参運動、ノーレジ袋運動の推進、生ごみ減量機器補助制度の普及などを掲げる一方、「ダストボックスの堅持」を打ち出していた。答申にはこうある。

「市の特徴と言えるダストボックス収集方式を継続するためには、ダストボックスの利用者である市民、事業者一人ひとりの自覚を高めることが必要です。地域ごみ対策推進員と協力して(中略)地域全体でダストボックスを守るという意識づくりを進めていきます」

答申は、不思議なことに、他市で進んでいたごみ袋有料化と個別収集について何も触れていなかった。

問題点わかりながらなぜ、こんな答申が

答申は、一方で「ダストボックスは、終日ごみが出せる、猫やカラスなどの公害がなく、衛生的で利便性の高いものですが、反面次のような問題点があります」とし、分別が不適切になりがち、資源化できるごみが混入し減量が進まない、不法投棄が多くあるなど、問題点も挙げ、「近隣市ではダストボックスの廃止が進み、現在は府中市のみで行われています」と説明してもいた。

問題点がありながらなぜ、廃止が打ち出せなかったのか。この答申づくりをおこなった審議会の議事録を見ると、こんなやりとりがあった。答申が出る半年前の6月の審議会のことだ。

委員「多摩市、日野市(筆者註:いずれもダストボックスの廃止、ごみ袋の有料化、個別収集を実施している)はボックスをやめることで(ごみ減量)効果がありそうですが、それを考えて検討していくのとそうでないのでは考え方が変わってしまいます。市として廃止としてどう考えているのでしょう」

環境安全部長「市長の公約としては継続になります。しかし、研究テーマとしては考えていく必要もあると思います」

岡本会長「ボックスにこだわらなくてもいいと思います。目標はごみを減らすということですから、その筋道で考えていくべきだと思います」

市長の公約という制約があるというのだ。この後、議論はレジ袋問題に移っている。

審議会がこの問題に億劫なのは、2000年の市長選で、保守分裂の激戦を勝ち抜いた元市収入役で地元の酒造経営者として名士でもあった野口忠直氏が、選挙公約に「ダストボックスの堅持 」を打ち出したことにある。市長の公約に反することは書けないというのである。

ダストボックス存続が選挙公約だった府中市長

実は、その数年前のことだが、府中市ではダストボックスの存否をめぐって議論になっていた。

2003年に策定された環境基本計画は、府中市初の市民参加による計画づくりによるものだった。筆者は検討委員会委員としてごみ問題のグループに入り、ごみ減量の目標として、ドラフトに50%のごみ減量を書き込んだ。その際、ダストボックスをどうするか議論した。

女性委員「ダストボックスを残していたらごみは減らない」

男性委員「捨てがたい。便利だから、廃止しなくてもごみは減らせる」

男性委員「野口市長がダストボックスの存続を公約にしているから計画に廃止を盛り込めませんね」

筆者は、50%のごみ減量にはダストボックスの廃止と有料化を唱えたが、多勢に無勢。辛うじて50%のごみ減量目標だけが残った。「市長がダストボックス堅持を公約にしているから、環境基本計画に書けない」と言った委員の中には、後に市会議員になる西宮幸一氏も含まれていた。結局、検討委員会として市の方針に逆らうことは書けないとの判断に落ち着き、筆者も渋々了解した。

市役所ではこの問題に触れるのはアンタッチャブルになっていた。市民に行ったアンケートでは、8割がダストボックスの存続を求めていた。しかし、あった方がよいか、なくした方がよいかと尋ねたら、市民は今の便利な方を選択するに決まっている。審議会で、市は、このアンケート結果を盾に、廃止できない理由にしていた。

ごちゃまぜに出したら資源にならない

ごみを減らす有力な方法が、ごみから資源を取り出しリサイクルすることだ。焼却したり、埋め立てたりする量を減らすことができる。

2000年、容器包装リサイクル法の容器包装プラスチック(以下、容器プラ)の選別・リサイクルが施行され、自治体には容器プラの分別収集が努力義務となった。自治体は、選別施設を建設し、そこで選別し、容器包装リサイクル協会に引き渡すことになった。

府中市も容器プラの分別収集を始め、老朽化したクリーンセンターに集め、作業員が不燃ごみに混じった容器プラをより分けていた。人海戦術である。

2006年10月に新しいリサイクル施設のリサイクルプラザが完成し、容器プラはこちらに持ち込まれることになった。これまでと違って容器プラを家庭からの排出段階から選別して出してもらい、プラザで、それを圧縮、ベールにして容器包装リサイクル協会に引き渡す。

これまでと違って作業員の手間もかからず、スムーズに選別、圧縮、保管の業務が担えるはずだった。筆者は、四谷にある稼働して間もない「リサイクルプラザ」を訪ねている。すぐ近くを多摩川が流れ、近隣に倉庫などが並ぶ。応対してくれたプラザの所長がうめくように言葉を吐き出した。

「もうむちゃくちゃな状態なんです。容器プラを入れるごみ袋の中に、生ごみも不燃ごみも、あらゆるごみがごちゃ混ぜに詰め込まれているんです。こんなものを持ち込まれて、どうしろというんです!」

2006年暮れごろの府中市リサイクルプラザの容器プラのライン。異物が大量に混入している
杉本裕明氏撮影 転載禁止

ごみ袋を開けてもらうと、空き缶、ボトル、紙ごみ、スプレー缶、歯ブラシといった異物がいっぱい入っている。作業員がひとつずつ袋を開け、中の異物を取り除き(粗選別とも言う)、それを破袋機に放り込み、可燃ごみ扱いとなるごみ袋を取り除いた中身がベルトコンベアに乗せられる。

現在のリサイクルプラザ。異物は少なく、手替えのプラスチックケースに入れる
杉本裕明氏撮影 転載禁止

それをヘルメットと手袋をつけた作業員が、流れてくる容器プラから異物を取り除く。ペットボトル、紙屑、製品プラスチックなど、様々なものが混じっている。クリーンセンターでやっていたのと同じことをしているというのである。

「こうなることは目に見えていた」

作業員が言った。「曜日を変えたって、同じダストボックスに入れてくれといえば、こうなることは目に見えていた。選別の人を増やし、最新式の選別機械を入れても、改善される見込みがたたないのです」

実は、2003年の答申に、容器プラの収集方法として、オレンジ色の不燃ごみのダストボックスを使い、「不燃ボックスの回収日に、プラスチック専用日を設けることを検討します」と書き込まれていた。それをたたき台にし、その後の審議会で議論した。

その頃は、まだリサイクルプラザがなく、老朽化したクリーンセンター(1984年~)で、2000年代初頭から不燃ごみから容器プラを取り出し、容器包装リサイクル協会に引き渡していた。しかし、それでは、作業員の手間が大変で、新しくリサイクルプラザが完成する2006年10月から容器プラだけ収集し、リサイクルプラザで選別した方が効率的なことから、市が収集方法を検討していた。

審議会の議論で、ネックになったのが、ダストボックスだった。市は、新たに容器プラを専用のごみ袋に入れて集積地に出そうとしても、ダストボックスが占めており、新たに容器プラの収集箱を置くスペースはないと、審議会で説明していた。

審議会の議長もオレンジのダストボックス利用を主張

しかし、選別した容器プラをリサイクルプラザに持ち込みたいと市は言った。

「リサイクルプラザが完成すると、廃プラスチック専用のピットができますので、いままでのように廃プラスチックを施設内で分別するのではなく、市民が分別排出したものが施設内選別をせずに資源化される形をとりたい」

前の審議会の答申にあった、オレンジ色のダストボックスを、日を決めて容器プラだけを回収する案を検討した。

ある委員が「市民が(今の方法に)習慣づいており、大幅な変更は難しい。有料袋を購入し出す方法がよい」と反対すると、新たに会長になった福田清春東京農工大学教授が、「莫大な量なので新たな収集荷所を見つけるのは難しい。また安全面などから見て難しい」と反論した。

別の委員は「オレンジのダストボックスを撤廃するがよいと思っていますが、あるという前提で議論するのならば、収集日によりダストボックスを使い分ける方法がよいと思います」

市民の頭が混乱する

結局、2005年9月の中間答申に「オレンジボックスを週ごとによって廃プラスチックとその他不燃ごみに切り替えて収集する方法が、現在の収集システムを変更せずに安全性、収集スペースの観点を考慮した場合にもっとも実現性が高い収集方法であるという結論に至りました」と書かれた。

これに基づき、市はリサイクルプラザの稼働に合わせ、2006年10月からこの方式をスタートさせた。オレンジ色のボックスを、月の3週間は容器包装プラスチックを入れ、残りの1週間は不燃ごみを入れることに変更した。だが、これは市民から酷評を受けた。

「週替わりなんてわかりにくい」

「混乱して、異物が入るのではないか」

筆者が、容器プラを出す日、オレンジ色のダストボックスを開けると、容器プラ以外の不燃ごみが大量に入っていた。やはり、市民にわかりにくい仕組みなのである。

リサイクルプラザの作業員を増やして乗り切ったが

それに、だれも見ていないし、出したらわからないとなれば、ずさんな出し方になる。市民のモラルに頼っているだけでは正確な分別は難しい。

リサイクルプラザの幹部が、「府中市民の分別意識はどうなっているんだ」と怒るのも無理はなかった。何しろ、集めたプラスチック容器包装の半分以上が不燃ごみなどの異物だった。

結局、作業員が、容器プラと他のごみを手選別することになる。市は、リサイクルプラザの要請で、作業員の数を大量に増やさざるを得なくなった。リサイクルプラザの別の職員も筆者に言った。

「いまやっていることは、市民に代わって、市がごみ分別をしているだけです。こんなことをいつまでも続けていていいのでしょうか」

この行為によって、府中市は当時、30%を超えるリサイクル率を保持していたのである。

容器包装のリサイクルの仕組みは

容器包装リサイクル協会は、サントリーなど容器に中身を詰めて販売するメーカー、プラスチック容器包装のメーカー、スーパーなどの販売業者などが作った団体で、市町村が集めたプラスチック容器包装やペットボトル、瓶などを、入札でどのリサイクル業者にリサイクルさせるか決め、引き渡す。

ペットボトル以外は、処理費がかかる(ペットボトルは容器包装リサイクル法の施行からしばらくたって有価で取引されるようになった)ので、容器包装リサイクル協会の構成メンバーが、お金を出し合って処理費をリサイクル業者に支払っている。

リサイクル業者にとっては、リサイクルしやすい、異物の少ないものが好ましい。そのため、協会は、市町村が集めたプラスチック容器包装をチェックし、A~Dにランク付けし、指導に乗り出した。当時の府中市は、常時ランクCで、協会から小言をもらっていた。いわゆる「お荷物自治体」というわけだ。

府中市の容器プラはDランク

こんなことがあった。容器包装プラスチックは圧縮し、1メートル四方のサイコロ状のベールにしていた。協会は、年に2回、リサイクルプラザに来て、抜き打ち検査し、異物が混じっていないか調べる。府中市は、いつもそのチェックにひっかかった。

いくつかのベールをばらし、袋を開封し、中身を取り出すと、異物がいくつも見つかる。一番よいのはAランク。次がBランク、その次がCランク。Dランクになると、指導が厳しく、市町村は、改善計画を協会に出して、再度審査を受け直すことになっている。

現在のリサイクルプラザの容器包装プラスチックのベール。いずれもきれいで、大半がAランク
杉本裕明氏撮影 転載禁止

それでもだめだと、翌年度は引き取ってもらえない。そうなると、事業者がトン当たり5万円以上負担しているリサイクル費用が丸々市町村の持ち出しになってしまう。

Dランクの烙印を押された府中市は、改善計画をつくり、リサイクルプラザの作業員の数を増やした。選別機械を新たに整備し、異物を除いた。これに多額の税金が投入された。何のことはない。市民が分別しないごみを、行政がわざわざ、分別し直していたのである。対処療法の限界である。

再度、審査した協会は、ふたたびDランクの烙印を押して帰ったという。こんな危機的な状況にもかかわらず、市はしばらくの間、容器プラの分別方法を見直そうとはしなかった。

市には「ごみ改革推進本部」があったが、幹部は「ダストボックスがあるが、『容器包装プラスチックだけ、袋に入れて外に出しておいてください』とは言えなかった。ダストボックスが廃止されたら改善されるのでしょうが」と釈明した。

何をすればよいのかわかっているのに、タブーに触れられない。その尻拭いをリサイクルプラザの作業員がしていた。

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