渡良瀬遊水地で自然再生の試みが続いている

渡良瀬遊水地で自然再生の試みが続いている
渡良瀬遊水地は大きい。谷中湖がある第一調節池から右の(東)の第二調節池、上(北)の第三調節池の湿原が広がる
提供:国土交通省

栃木、群馬、埼玉、茨城4県にまたがる渡瀬遊水地は、面積33平方キロ、総貯水容量約1億7000万トンの日本最大の遊水地です。洪水時には、遊水地に川から水を引き入れて貯留し、下流域の氾濫を防いでいます。

しかし、一方で遊水地は、乾燥化と富栄養化が進行し、かつての湿地の原型を失いつつあります。そこで、湿地を再生させようと、さまざまな団体や人びとが活動しています。かつて、湿地のなかに飛行場や複数のゴルフ場を計画したり、湿地に巨大な貯水池を増設し、首都圏に水道水を供給したりしようとする計画が進んだことがありました。

いまから考えると、ありえない話ですが、当時、開発計画に反対する住民らが結成したのが、「渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会」。運動が実って計画は中止となり、協議会はやがて、ラムサール条約の登録湿地化、さらに湿地再生の活動と進化していきました。渡良瀬遊水地の魅力につかれた人たちの、35年の軌跡を追いました。

ジャーナリスト 杉本裕明



高校生も参加し、どろんこ庭づくり

2026年8月、環境再生の取り組みを見るため、渡良瀬遊水地を訪ねた。案内してくれたのは、「渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会」の世話人、猿山弘子さんと、前田克子さん、幸男さん夫妻の3人。

渡良瀬遊水地の地図を見て行き先を示す猿山弘子さん
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

栃木市にある猿山さんの自宅から、車で彼らの乗った車の後をついて走ること30分。渡良瀬遊水地の西側の入り口からそのまま、車で入る。谷中湖のある第一調節池を通り過ぎ、第二調節池に入る。ヨシなどの植物が生い茂り、その間の細い道をそろそろと進む。

一般市民が入れない細い道を進んでしばらくたった頃、3人の車が止まった。ヨシ、オギなどの生い茂る湿地に足を踏み入れた。小さなスペースだが、草が刈り取られ、湿地らしい泥の表土が現れていた。

第二調節池では、再生のための活動を行うゾーンが指定されている
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

ただの泥地にしか見えないが、ここが実験場なのだ。一面を覆っているヨシとオギを刈り取り、根っこを掘り下げ、土をかき混ぜる。すると、水が湧き出て、泥状の表土が現れる。こうしてやることで、昔、ここに生えていた植物の再生を促すのだという。

数十年前の湿地の復元目指す意味

「かつて生えていた植物を再生させるとは?」と聞くと、克子さんが言った。

「埋土種子と呼んでいるのですが、湿地の泥の中には、過去に生息していたいろんな植物の種子が埋もれています。それが再生できる環境にしてやろうということです」

何十年も前か、もっと昔の植物のタネから芽を出し、育てることで、昔の湿地の風景が、一部ながら現れるというわけだ。しかし、遊水池は広い。谷中湖のある西側の第一調節池は、人びとの憩いの場として訪れる人も多い。

ヨシとオギを伐採する
「どろんこ庭」ができた
2024年には、残ったヤナギの切り株をトラクターで掘り起こした(渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会提供)

参考:渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会 わたらせ遊水池通信 NO.80

しかし、東側の第二調節池と北側の第三調節池は、ヨシとオギが生い茂り、湿地といいながら「大草原」に見える。国土交通省が設置した渡良瀬遊水地湿地保全・再生検討委員会で、この第二調節池の一角を環境学習フィールドとし、そこで協議会はじめ、幾つかの団体が、湿地環境の再生に向け取り組んでいる。猿山さんたちは、「どろんこ庭づくり」と呼ぶ実験を続けている。この取り組みを協議会の会報で紹介している。

「どろんこ庭に絶滅危惧種のコキクモを発見。(これまで見つかっておらず)埋土種子からの出現と見られる」(2025年10月28日)

「国立環境研究所のご協力により13名で、ヤナギの伐採、伐採枝と枯れ草を束にして火道作り。火道作りはヨシ焼き伐採枝を燃やすため、ヤナギ木炭をつくるため、空き缶に伐採枝を入れ、火道の中に設置」(2026年2月22日)

貴重な種が幾つもみつかった

「ヨシ焼きが実施された。ヨシ原約1,500ヘクタールの約8割が燃えたと推測されている」(2026年3月14日)

「ヨシ焼き後の様子の観察と、燃え残ったヤナギの伐採、焼き野原で試しの土掘りを実施。栃木県立栃木農業高校の生徒さん8名を含む17名が参加。観察では、水柱にニホンアカガエルの卵塊とそのオタマジャクシ、ミナミメダカ、ヌマガイの殻を水際に確認。絶滅危惧種のコハンミョウモドキが地面を歩いていた」(同3月22日)

「どろんこ庭づくりを開催。ニホンアカガエルは成体に変わり、タコノアシ(絶滅危惧種)の芽生えが増えた。絶滅危惧種のコツブヌマハリイを発見。19名の参加あり」(同5月9日)

猿山さんが言う。

「最初は、東京大学の保全生態学研究室(鷲谷研)の発案で、『お宝さがしプロジェクトの名前をつけて、掘り返した土を小学校に持っていって、中にあった種子から芽が出るのか観察してもらいました。』そして土から芽が出て、再生が起きることを確認しました。そこで、この実験結果を国に報告し、渡良瀬遊水地湿地保全・再生基本計画につながりました。こうしてラムサール条約登録後、次のどろんこ庭造りにつながっていきました」

土に埋もれ、絶滅したはずの植物が、タネを残し、再生するとは――。ロマンを感じさせる試みだ。

ヤナギを刈り取ったあと(上)、火道をつくり、ヤナギを焼く
提供:住民協議会

参考:渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会 わたらせ遊水池通信 NO.79

自然環境の価値を認め始めた国

失われた生態系や自然をとり戻すため、2002年自然再生法が議員立法で制定された。事業の実施者が、地域住民、NPO、専門家と「協議会」をつくって議論し、国と自治体の支援も得て、「自然再生事業」に取り組むという内容だ。同法のもとで、全国28所で再生協議会がつくられ、取り組みが進められている。

渡良瀬遊水地の谷中湖。首都圏に送られ水道水に利用されている
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

よく知られているのが、北海道の釧路湿原。乾燥化が進む釧路湿原の再生のため、河川改修で直線化した釧路川の一部を昔のように蛇行させ、自然復元を図ったり、魚類の遡上環境を改善したり、湿原に流入する土砂を防いだりしている。協議会が設置された多くは、重要な湿地を保全するためのラムサール条約登録湿地に指定されているところで、湿地環境の回復と保全が目標だった。

渡良瀬遊水地は湿地に生息する生物の宝庫だ
提供:住民協議会

参考:渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会 渡良瀬遊水池の自然

1990年代後半は、長良川河口堰(三重県)、千歳川放水路(北海道)、諫早湾干潟(長崎県)の埋め立て、藤前干潟(名古屋市)の廃棄物埋立処分場化など、巨大公共工事によって自然環境が危機に陥り、各地で自然保護団体などによる反対運動が燃えさかった。また、湿地を抱える地域では、ラムサール条約の登録湿地にする運動が盛り上がりを見せた。こうした環境のもと、自然再生法が制定され、各地で協議会がつくられ、取り組みが行われている。

しかし、渡良瀬遊水地はこの法律とは独立して取り組みが進んだ。この動きには、協議会の存在なしではありえない。自然保護団体が渡良瀬遊水地を舞台にした国主導の開発計画に反対し、最後には自治体を巻き込み、2012年にラムサール条約の登録湿地を実現させた。国も協議会など住民・市民と対立するのでなく、話し合い、彼らの力を借りて、遊水地の自然を守っていく姿勢に変わった。

公害の原点、田中正造と渡良瀬遊水地

渡良瀬遊水地の歴史は古い。渡良瀬遊水地の中心部を渡良瀬川が貫く。やがて利根川に合流し、太平洋に注ぎこむ。渡良瀬川の下流部は、大きな湿地帯で、その中央部にあったのが、谷中村(1889年開村)。周囲を堤防で囲み、稲作を営み、開村の5年後には386戸、2302人を数えた。

1890年、96年と度重なる洪水と、さらに上流にある足尾銅山の鉱毒水が渡良瀬川に流れ込み、洪水になると、下流地域の住民や魚、作物を痛め続けた。その鉱毒被害を軽減すると称し、明治政府は、洪水を受け入れる遊水地計画を打ち出した。なるほど下流域の鉱毒被害は減る。しかし、足尾鉱山はそのままだし、そもそも、遊水池計画地の中に谷中村があった。

土地を強制的に買収、1906年、谷中村は藤岡町に合併し廃村となった。鉱毒被害の一番の被害者である村民が一番の被害者であった。住民の抵抗もむなしく、国の事業が始まり、1922年に渡良瀬遊水地が完成した。

天皇に直訴、そして谷中へ

田中正造は、1841年下野匡阿蘇郡小中村(現・栃木県佐野市)の農家に生まれた。祖父の代から村の行政を取り仕切る名主をつとめ、正造も17歳で名主となった。やがて県会議員をへて、1890年第1回総選挙で衆議院議員に選ばれた。足尾銅山の鉱毒問題を国会で鋭く追及したが、政府が聞き入れることはなかった。1901年10月23日議員を辞職した田中正造は、その年の12月10日東京で、天皇への直訴に及ぶ。

直訴状を手に「お願いがございます」と叫び、国会から皇居に帰る天皇の馬車に迫った。警官に取り押さえられ成就しなかったが、各新聞社は号外を出し、鉱毒問題を取り上げ、被害を受けた人たちに同情した。

そして、1904年、国が、治水を理由に、谷中村を廃村とし、遊水池にする動きを見せるのに対し、田中正造は、谷中村に入り、村民とともに抵抗の歩みを始めたのである。それは、1913年72歳で生涯を終えるまで続いた。その軌跡は、時代とともに忘れ去られようとしていたが、半世紀後、甚大な公害問題の被害者やその支援者たちによって、再び陽が当てられる日がやってきたのである。

鉱毒事件を鋭く追及し、滅亡させられた谷中住民とともに抵抗を続けたその姿は、公害反対運動の原点ともいえる存在となった。そればかりではない。公害問題の解決に取り組む国の中にも、田中正造を敬愛する官僚は数多くいた。「公害の神様」「ミスター環境庁」と言われた環境庁大気保全局長の橋本道夫さん(故人)もその一人。追悼文を新聞に書いた筆者が、遺族とマンションの小さな居室に入ると、書棚に田中正造全集が並んでいた。

洪水から首都圏を守った遊水地

2019年の台風第19号の時、渡良瀬遊水地は容量の9割の洪水を引き込み、下流の首都圏を洪水から守った
提供:国土交通省

そんな過去を持つ渡良瀬遊水地だが、1970年以降、第一と第二調節池が供用開始された。そして第一調節池を6メートル掘り下げ、谷中湖(渡良瀬貯水地、有効貯水量2640万トン)を造り、首都圏に水道水を供給できるようにした。治水(洪水対策)と利水の両面を目指したわけだ。

1997年完成した第三調節池と共に、3つの調節池で1億7,000万トンの水をためられ、渡良瀬川と利根川、江戸川の洪水を防ぐ役目を負っている。 最近も、その効果を見せつけたことがあった。2019年10月、日本列島を台風第19号が襲い、渡良瀬川の濁流を渡良瀬遊水地に引き込み、下流の利根川の氾濫を防いだ。当時、国土交通省の担当者は、筆者に「渡良瀬遊水地と上流の八ッ場ダムが貢献してくれた」と語った。

ムダな公共事業と言われた八ッ場ダムが完成し、試験湛水中で、カラカラの状態だったことが幸いし、7,500万トンを貯留することができた。

少し進むとヨシとオギなどの草原のよう
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

しかし、普段、ダムは、ダム湖に水をため込み、同じような貢献ができるわけではない。住民協議会の世話人で、元東京都環境科学研究所の研究員、嶋津暉之さんは、「洪水を防ぐ役割を渡良瀬遊水地は果たした。でも巨額の費用をかけて造った八ッ場ダムの効果には疑問がある。上流のダムだから下流にいくほど効果は小さいし、試験湛水でダムが空の状態だったという特殊事情もあった」と、私に語った。

谷中村の遺跡を守った人びと

渡良瀬遊水池を訪ねると、ハート型をしたくぼみの部分は、「谷中村史跡保全ゾーン」とされ、谷中村の遺跡がある。共同墓地が見える。この遺跡を水没させず守ったのが、「谷中村の遺跡を守る会」(1972年設立)の人たちだった。

建設省は1972年、谷中湖を造る時、この跡地も水没させるつもりだった。旧谷中村の子孫たちは、墓石を壊そうとするブルドーザーを、身を挺して阻止し、当時の建設省利根川上流工事事務所と談判した。旧藤岡町(現栃木市)出身で元参議院議員の岩崎正三郎さんが先頭に立って建設省と交渉した。その結果、現在のハート型にし、湖底に沈むのを回避させ、遺跡を守った。その子孫を中心に、同2年9月「守る会」が設立されたのである。

田中正造に関する本は非常に多い。「田中正造の生涯」(講談社現代新書)で、著者の林竹二(元宮城教育大学学長)は、二枚の正造の写真(岩波文庫表紙にある)を、「谷中村に最初に入った時の写真」(奥、文庫本二)と「最後の写真」(手前、文庫本一)とし、前者は「谷中人民の保護者、指導者として」の顔、後者は「谷中人民の保護者としての立場をすてて、反対に谷中人民に師事する意志をかため」、苦学の末にたどり着いた顔とし、「正造の苦学が、正造の人間と思想にどれほどの深まりをもたらしたかを雄弁に語りつくしている」と評している。守る会は、雷電神社跡に、田中正造が日記に残した一部を案内板に記した(現在は撤去され、別の掲示板になっている)

「谷中、銅山との戦なり。官憲之に加わりて銅山を助く。人民、死を以て守る。憲法を守り、自治の権を守り、祖先を守る。死を以て守る」

渡良瀬遊水池には、足尾銅山の鉱毒に苦しみ、明治政府の圧力で土地を奪われ、流浪の民となった谷中村の民と、最後まで彼らと行動を共にした田中正造の苦難の歩みがあったことを、忘れてはならないと思う。

谷中村の遺跡を守る会の会員らは谷中村遺跡跡で定期的に草刈りをしたりして守り続けている
提供:谷中村の遺跡を守る会

参考:谷中村の遺跡を守る会 活動報告

一代目会長の岩崎さんから5代目になる坂原辰男会長は「旧谷中村の子孫らが集まり、遺跡を保存するために立ち上がって会ができた。滅亡した谷中村と田中正造の歴史を伝えることは、大切なことだ」と語った。

リゾート施設の設置反対へ

いまでは自然再生に理解のある国土交通省だが、かつては違った。1987年リゾート法が制定され、全国でゴルフ場などのレジャー施設の建設計画が林立した。建設省も遊水池の利用を検討、同法制定の翌年、4県と関係市町村、民間企業による「渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団」が設置、遊水地にゴルフ場、運動場、テニスコート、ショッピングセンターを打ち出した。

これに鋭く反応したのが、高校教師の猿山弘子さんだった。1989年、計画の是非を問いて開催されたシンポジウムに参加した猿山さんは、「これで終わってはならない」と、地元住民らに呼びかけ、「水土と緑を考える会」を発足させた。まずは、湿地の価値を知ろうと、観察会・学習会を始めた。

しかし、国の動きは速かった。国から開発許可を得た財団はゴルフ場の造成工事を始めた。猿山さんらは、建設省利根川上流河川事務所や財団に、公開質問書を出したが、返答はなかった。

「このままでは遊水地は取り返しのつかないことになってしまう」。危機感を抱いた猿山さんは、宇都宮大教授で、全国のゴルフ場反対運動の理論的中心だった藤原信さんに相談した。「幅広く人を集め、国や自治体と交渉できる組織が必要です」と藤原さんは、快く協力を約束した。

チンドン屋さんも参加してデモ行進

1990年9月、藤原さんの呼びかけで、1都5県の16の自然保護団体代表や有志による「渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会」が発足した。代表世話人には、野鳥の会会員でもあり、一緒に活動していた高松健比古さんが、事務担当に猿山さんがついた。

住民協議会は、当時浮上していた国際空港化計画やゴルフ場の建設をやめさせ、ラムサール条約登録指定地にして保全するとの目標を掲げた。

その年の11月、藤原さんや猿山さんらメンバーの趣旨に賛同した利根川流域の住民らが渡良瀬川の河川敷に集まった。集会後に古河市のチンドン屋さんの応援も得て、270人が古河市までデモ行進した。決議文を4県の知事、建設大臣、環境庁長官に届けた。

署名を集め、パンフレットやリーフレットを作って、世論を広げる活動とともに、遊水池の自然を知るための調査活動を本格化させた。反対だけではものごとは進まない。開発を進めようとしている人たちに、湿地がかけがいのない存在だと知ってもらわねばならない。16団体の20人ばかりで始めた住民協議会は、会員も増え、国も自治体も、その主張を無視できない存在になっていた。

エコミュージアム構想を提案

しかし、谷中湖が完成すると、建設省による、第二調節池を掘削して巨大な池をつくり、首都圏に水道水を供給する計画が浮上した。嶋津暉之さんは、専門分野でもある首都圏の水余りの実態を調査して反論した。それに谷中湖の水はカビ臭が強く、大きな問題になっており、さらに貯水池を造ることに反対していた。

建設省は、中湖の水をヨシ原に流し水質浄化しようと、1993年「ヨシ原浄化施設」を造った。これで谷中湖の水質悪化が解決するかのような話になっていたため、疑問を持った協議会が調査すると、効果はわずかで、むしろヨシの生育に悪影響を与える結果となった。これを受け、貯水池の計画は中止された。

一部のゴルフ場は建設されてしまったが、こうした活動もあり、残ったゴルフ場と空港化の計画は、中断されることになった。 協議会は、対案としてあるべき将来像を描いた「エコミュージアム・プラン」を作成した。

参考:住民協議会 渡良瀬遊水地まるごと博物館
  • 自然を守り続けるとともに、かつての遊水池の豊かな自然の再生をはかる
  • 遊水池を自然博物館とし、自然と歴史を学び、楽しむ場とする
  • 自然野外博物館の利用拠点として関連施設を周辺市町につくること――

を掲げた。これが現在の協議会の活動の基本となっている。

第一調節池の案内板
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

国の姿勢もかわった

頑なだった建設省の態度が変わり始めた。元々1980年代後半から欧州で導入されていたコンクリートで堤防を固めていた河川に自然を取り戻す多自然型工法が日本でも導入され、ダム一辺倒だった河川政策に変化が現れた。

長良川河口堰の建設をめぐって国民から鋭く批判された建設省は、自然環境の保全を重視し、不完全ながら住民の意見を聞き、政策に反映させようとした。建設省内部に、改革派、環境派と呼ばれる官僚たちが発言権を強め、河川整備の基本計画の見直しや、ダム審議会を設置して不要なダム計画を中止したりする政策に反映させた。

そんな空気は、渡良瀬遊水地にも波及した。建設省は1997年に第2貯水池の造成計画を中断し、2000年に「渡良瀬遊水地の自然保全と自然を生かしたグランドデザイン」を提言した。2002年8月には、省庁再編で建設省から衣替えした国土交通省が、正式に中止を決定した。「グランドデザイン」は、「自然環境と遊水地の役割の調和を考えながら、湿地や豊かな自然環境を再生する場」と位置づけていた。これにもとづいて国、関係自治体や関係団体が取り組むことになる。

再生検討委員会ができた

その具現化のため、同年、国や自治体、有識者、住民代表の参加の「渡良瀬遊水地湿地保全・ 再生検討委員会」が設置された。委員には、住民協議会の高松さん、わたらせ未来基金の青木章彦代表も就任した。

国土交通省は第二調節池で、掘削して池を造ったりして湿地再生のための整備をしている
提供:国土交通省

参考:国土交通省 掘削の進捗状況と今後の掘削予定

2010年までに計10回の委員会が開かれ、2010年に「渡良瀬遊水地湿地保全・再生基本計画」がまとめられた。「基本計画」は、「大小の池沼が点在し生物多様性に富んでいた1950年代(昭和30年代)の渡良瀬遊水地を目安に湿地の保全・再生を目指す」と目標を掲げている。住民協議会の活動もそれに沿ったものだ。

「わたらせ未来基金」は、住民協議会の猿山さんたちも参加して作った組織で、いまは外来種のセイタカアワダチソウなどの除去や、池の生物調査などをしてきた。今は、天然記念物コウノトリ復活を目指している。2020年から連続7年、第二調節池の人工巣塔でふ化に成功、生まれたひな18羽が巣立っている。

猿山さんは「もう遅いと言われながら、幾多の調査を続け、その情報を審議会や国に出し続け、工事事務所と粘り強く交渉を続けてきたことがいまにつながったと思います」と振り返る。

ウォッチングタワーから遊水地が一望できる
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

反対の自治体説得し、ラムサール条約登録湿地に

ラムサール条約登録湿地にするのにも、大変なエネルギーと努力を要した。猿山さんが振り返る。

「ラムサール条約を担当する環境省に要望しましたが、『渡良瀬遊水地は国交省に権限があるので』というだけです。環境省の弱い立場を知り、国土交通省にアタックしました。自治体の同意がとれたところと反対している市に分かれ、同意が必要と言われ、関係市町に陳情しました。同意してくれた町と反対の市にわかれ、反対している市の議員にも働きかけました。栃木市では委員会で4対4の同数となり、委員長が登録に賛成してくれ決着したというようなこともありました」

こうして地元の同意が得られ、2012年7月ラムサール条約の登録湿地になった。環境団体が、湿地のラムサール条約登録湿地を目標にするのは、登録地にするには、湿地の自然環境が、鳥獣保護区など、法的に保護されていることが条件になっているからだ。

かつて計画された飛行場やゴルフ場は、鳥獣保護区に指定されれば、もちろん不可能となる。だから、地域の発展のために開発が必要と考える自治体や住民は、ラムサール条約の登録を嫌い、同意しないことが多い。

翌2013年、国土交通省は登録後の進め方を議論するため、「渡良瀬遊水地保全・利活用協議会」を設置した。「湿地の保全」と「賢明な利用」にむけて、地域の合意形成が必要で、国や自治体、関係団体が対話し、合意形成を図ることが目的だ。

また渡良瀬遊水池湿地保全・再生検討会も設置され、毎年、再生の取り組みをしている住民協議会とわたらせ未来基金が活動報告を行っている。鳥類調査(25年度4回)ではコウノトリ、ハヤブサ、 チュウヒ、サンカノゴイ、 オオセッカなどの希少種も多数観察された。

「わたらせ未来基金」が取り組むコウノトリを生息させることについては、「小山市側の遊水地東部で連続して幼鳥の巣立ちに成功 しており、時に10羽を超える群れが見られるなど、渡良瀬遊水地が東日本随一のコウノトリ生息地になっていることは間違いない」と報告した。

参考:国土交通省 市民の活動報告

嶋津さんの残した言葉

協議会の世話人だった嶋津暉之さんは、ダム問題に取り組む「水源開発問題全国連絡会」の共同代表も勤めていた。都の職員として、工業用水を使う工場をしらみつぶしに調べ、節水が可能であることを明らかにし、国や自治体が根拠とした過大な水需要予測の誤りを実証したこともある。感情をぶつけるのでなく、データを示し、国の誤りを追及する嶋津さんに、国土交通省も一目置いていた。

協議会の「知恵袋」だった嶋津さんは、2年間の闘病を経て、2024年2月に亡くなった。その1年前、住民協議会の30周年記録誌に寄稿している。国土交通省と交渉を重ねながら、湿地の環境を守ってきた住民協議会の歴史を振り返りながら、国には、こう期待の言葉を述べている。

「国も基本計画を発表し、第二調節池を対象として掘削事業を進めるようになりました。湿地再生という目的は(私たちと)共通していますが、国の事業は掘削のみを手法としているのに対して、私たちのプランは掘削を最小限として、水路を張り巡らせ、浅瀬、沼に水を供給することなどで豊かな湿地を再生するとしており、このプランが今後取り入れられていくことを期待します」

取り組みは次世代へも引き継いで

利根川上流河川事務所の流域治水課は、「2019年の台風第19号の時は、1億7,000万トンの容量の9割にあたる洪水を遊水地に引き入れ、河川の水位を低減した。湿地環境の再生等のため、第二調節地を掘削して池を設置し、コウノトリのエサ場にもなっている。住民団体によって環境保全の取り組みも行われており、よい関係を続けていきたい」と話す。

猿山さんは「渡良瀬遊水地を舞台にした私たちの歩みは、自然環境の保全を求めての開発反対運動から、湿地の価値を調べ、ラムサール条約登録湿地を求めての運動、さらに湿地の再生へと変化してきました。遊水地の湿地再生活動を続けるとともに、次の世代に引き継ぎたいと思います」と話している。

参考:谷中村の遺跡を守る会 ホームページ
参考:渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会 ホームページ

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