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「石けん運動」から「菜の花エコ革命」まで 環境保全と資源循環の社会めざし、藤井絢子さんが歩んだ半世紀

「石けん運動」から「菜の花エコ革命」まで 環境保全と資源循環の社会めざし、藤井絢子さんが歩んだ半世紀
菜の花畑に包まれた菜の花館
提供:藤井絢子さん

田園や山の資源を地域で循環させ、農業と地域を再生させようと、全国で様々な市民が取り組んでいる。環境省も「地域循環共生圏」を掲げ、市民や事業者、自治体を応援する。その動きの源流となるのが、藤井絢子さんだ。

合成洗剤の排水で汚染された琵琶湖を救おうと「せっけん運動」に飛び込み、さらに荒廃した田畑に菜の花を植え、廃食油からバイオ燃料を製造する菜の花プロジェクトを全国に広げた。国や自治体を巻き込み、活動してきた藤井さんに、国も審議会の委員として政策提言してもらうなど一目置く。

その歩みは、市民運動のお手本だ。藤井さんの活動拠点である滋賀県東近江市の「あいとうエコプラザ 菜の花館」を訪ねた。

ジャーナリスト 杉本裕明



葉の花のイエローに包まれる菜の花館

「菜の花館」は、麦畑と水田が広がる田園風景の中にあった。春になると、菜の花で一面が黄色く染まる。

「菜の花館」は、「菜の花エコプロジェクト」をさらに発展させ、地域内の資源循環を進める拠点施設として2005年、合併して東近江市になる直前の愛東町が、農水省と滋賀県の補助金を得て設置された。2011年からは、指定管理者として、「NPO法人愛のまちエコ倶楽部」が管理・運営を東近江市から委託されている。

菜の花館を包むように広がる菜の花畑
提供:藤井絢子さん

「行政・市民・NPOの協働により、市域の資源循環の実践と、市域にとどまらない全国への発信を進める役割を担っている」(エコ倶楽部HPより)、活動拠点であり、全国センターの役割も併せ持っている。

館内は装置が集まる部屋と事務室などがあるが、見学者のためにパネルで説明されている
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

菜の花館の生みの親で、NPO法人愛のまちエコ倶楽部顧問の藤井絢子さんが施設を案内してくれた。館に入ると、さまざまな装置がところ狭しと並ぶ。工場のようでもあり、展示室のようでもある。「見学する市民や自治体の方も多いんですよ」と藤井さん。「環境の道」を歩んできた藤井さんの軌跡を映し出している。

せっけん製造装置とバイオディーゼル燃料製造プラント

1970年代に琵琶湖を守ろうと始まった「せっけん運動」を象徴するせっけん製造装置があった。

「このリサイクルせっけんプラントは古いけれど、家庭や給食センターから出た廃食油を原料に、地域のグループが、リサイクルせっけんを今も造っているんですよ」

粉石けんを造るための釜
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

藤井さんが指さしたのは、ミニプラント「ザイフェ」と呼ばれる釜だった。粉せっけん『愛しゃぼん』を製造し、販売している。 隣にはBDFの製造プラントがあった。菜種油など植物系の油から造ったディーゼルエンジン用の燃料で、BDFはBio Diesel Fuelの略だ。

BDFの製造プラント。1稼働で200リットルの廃食油をBDF180リットル製造する
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

廃食油は、給食センターと、27か所の集落の集積所などから、資源分別アイテムの空き缶や牛乳パックなどとともに「菜の花館」に持ち込まれる。「エルフA-3型」と呼ぶこのプラントは、200リットルの廃食油からBDF180リットルの製造能力がある。

東近江市を走るコミュニティバスの「ちょこっとバス」はBDFを混ぜた燃料で走っている
提供:藤井絢子さん

トラックやトラクター、コミュニティバス、イベントなどで使う発電機の燃料に使われている。この廃食油には、転作田に農家が栽培した菜の花からできた菜種油からの廃食油も含まれる。

これもBDFを燃料に動く。右は藤井さん
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

「くん炭製造プラント」は、農家や農協が精米して残った籾(もみ)殻を炭化し、土壌改良資材の「バイオ炭(もみ殻くん炭)」を製造する。

教師志望から結婚し、滋賀県へ

横浜に生まれ育ち、上智大学文学部に進学した藤井さんを待ち受けていたのは、60年代後半から吹き上げる大学紛争の嵐だった。ベトナム戦争、日米安保、大学の自治――。1968年度に67大学、69年度に127大学で紛争が発生し、上智大学もその渦の中にいた。

1969年、東大学生らが占拠した安田講堂が機動隊によって「落城」し、大学入試が中止となった。紛争のピークを迎え、上智大学も学生によってバリケードが築かれ、授業がなくなり、ヘルメットを被った学生で、構内が埋まった。藤井さんも、ベ平連、70年安保、大阪万博などに向け、行動を重ねていた。中でも1969年に出版された石牟礼道子さんの『苦海浄土』との出会いが、社会への目を開かせた。

「水俣病の患者さんを描いたこの本にショックを受けました。私も何か行動をと、突き動かされるものがあった」

有機水銀を垂れ流し、水俣病患者を発生させたチッソと、苦境にある患者と支援者たちが対峙していた。チッソとの自主交渉を迫る中で、「一株運動」と呼ばれるチッソの株券を買い、株主総会に出て経営陣の責任を追及しようという動きがあった。藤井さんも20株を手に入れ、株主総会に出席した。

藤井絢子さん
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

大学では歴史研究会に入り、多感な藤井さんだったが、目指した高校での世界史の教師の道はかなわない。大学院生だった71年に結婚したが、結婚式の2週間後、日本IBMに勤める夫の転勤に伴い、滋賀県守山市に転居した。

「フランス中世史を専攻していて、修士課程の単位は取り終えていましたが、論文はまだ書き上げていなかった。どうしようかと悩んでいたのですが、結果的には、滋賀県への転居が、私に大きな出会いと影響を与えてくれたのです」

水俣病の患者支援していた労組との出会い

当時、守山市にチッソの工場があり、組合活動をしている人たちがいた。熊本県水俣市の水俣工場では、長い間水俣病患者のことを顧みなかった労働者であった自分たちを恥じ、第1組合が「恥宣言」を出し、患者支援に動いていた。

守山工場も、その労組の労働者たちが活動していた。その中心にいたのが、細谷卓爾さんだった。東大を卒業し、幹部候補生としてチッソに入社したが、責任をとらないチッソの体質に疑問を持ち、赴任したチッソ守山工場で守山労組に加入した。若くして書記長に選ばれ、藤井さんと出会ったころは、滋賀地評事務局長に転じていた。

当時、地域生活協同組合をつくるため、労働組合、消費者団体、婦人会など多くの組織からなる「準備会」が結成され、細谷さんが会を引っ張っていた。そこに参加した藤井さんは、細谷さんと出会った。

当時滋賀県政は、金権政治がはびこり、特定の土建業者が甘い汁を吸い、県財政は破綻寸前に陥っていた。1974年、細谷さんは、元自治省官僚から八日市市長に転じていた武村正義さんを説得し、知事選に担ぎ出すことに成功した。その後も陰日向で武村知事を支え、武村さんは「最も信頼のおける人、心強い政治の友でした」と振り返る(関根英爾『細谷卓爾の軌跡 水俣から琵琶湖へ』への寄稿)。

近畿の水源地、琵琶湖を襲った赤潮

1977年5月27日、琵琶湖に大規模な赤潮が発生した。藤井さんはショックを受ける。

「赤潮は、瀬戸内海など海で発生するのを見聞きしていました。琵琶湖は、近畿地方の住民の飲み水となっています。このままでは琵琶湖が死んでしまうと思いました」

すり鉢のように、琵琶湖に汚染された河川水が流れ込み、植物プランクトンが増え、富栄養化により赤潮が発生していた。富栄養化をもたらす物質の1つがリンで、家庭の雑排水に含まれていた。当時の合成洗剤にはリンが含まれ、琵琶湖に流入する1日2トンのリンの4分の1は合成洗剤のリンだった。

藤井さんは、「合成洗剤をやめ、せっけんに替えよう」と考え、粉せっけんの普及活動に参加した。細谷さんは1972年、湖南消費生活協同組合を設立、理事長に就任した。生協も粉せっけんを販売し、合成洗剤の代替案になるという運動のわかりやすさは、県民の共感を広げていった。

有リン合成洗剤の使用禁止する滋賀県条例

合成洗剤より、安全な粉せっけんを使おうという運動が大きなうねりとなり、県民の使用率は7割を越す勢いになった。その動きを見た武村知事は、リンを含有する合成洗剤の販売と使用の禁止、工場の排水規制、農業や家庭の排水対策からなる条例の制定に踏み出した。

これに対し、石鹸洗剤工業会は反対運動を展開した。一方で、危機感を抱く洗剤メーカーは、リンを含まない無リン合成洗剤を開発した。皮肉なことに、市民運動がメーカーの技術開発を促した形となった。

1980年、琵琶湖富栄養化防止条例の施行を控え、武村知事もみずから車に乗り、県民に呼びかけた
提供:藤井絢子さん

1979年10月、全国初の「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」が制定、翌年7月施行された。前文はうたう。

「水は、大気、土などとともに人間生存の基盤である。この水を満々とたたえた琵琶湖は、日本最大の湖として、われわれに大きな試練を与えながらも、限りない恵みをもたらしてきた」

「この琵琶湖が、近年、急激な都市化の進展などによって水質の悪化、とりわけ富栄養化の進行という異常な事態に直面している。しかも、それは、琵琶湖自身の自然の営みによるものではなく、琵琶湖流域に住む人々の生活や生産活動によって引き起こされている」

「悠久の歴史をつづりながら、さまざまな人間活動を支えてくれた琵琶湖を、今、われわれの世代によって汚すことは許されない。水は有限の資源であり、琵琶湖はまさにその恩恵に浴する人々にとっての生命源であり、深い心のよりどころである。われわれは、幾多の困難を克服して、この水と人間との新しい共存関係を確立していかなければならない」

「いまこそ、われわれは、豊かさや便利さを追求してきた生活観に反省を加え、琵琶湖のもつ多面的な価値と人間生活のあり方に思いをめぐらし、勇気と決断をもつて、琵琶湖の環境を保全するため総合的な施策を展開することが必要である」

「琵琶湖とともに生き、琵琶湖を愛し、琵琶湖の恵みに感謝する県民が環境保全の意識に目覚め、今、ひたむきに創造的な活動を繰りひろげている。われわれは、この自治と連帯の芽を育てながら、一体となって琵琶湖を守り、美しい琵琶湖を次代に引き継ぐことを決意し、その第一歩として、ここに琵琶湖の富栄養化を防止するための条例を制定する」

NO!というだけでなく、代替案提示の重要性

制定を目指した藤井さんら市民の高い志と熱意が、この歴史的な前文から漂ってくるようだ。これが、藤井さんのいまに続く市民運動のスタイルとなった。

「NO!というだけでなく、それに代わる選択肢を提示し、その代替案への共感を広げていくというやり方です」

問題解決を行政や企業に求める(他律)だけではなく、住民自らがその問題解決の方策を考える(自律)ということであり、自らが率先して行動に移していく(自立)ことを、活動を通して感じ取った。

実は、この赤潮問題が起きる前年、ある業者が湖南生活協同組合を訪ね、リサイクルせっけんについて相談した。せっけんは廃食油から造られていると聞かされた細谷さんは、天ぷら油など家庭から出た廃食油を集め、せっけんを造れば環境保全と省資源が両立すると考えた。藤井さんはじめ、組合員も市民も大賛成で、共感の輪が広がっていった。

今度はアオコが大発生

こうして廃食油を集め、せっけんを造り、普及させる運動が始まった。条例が施行すると、市町村も協力し、廃食油回収に協力する家庭は1万軒から6万軒に増えた。この業者が、いまも粉せっけんを作り続けるマルダイ石鹸本舗である。

せっけん運動と、無リン洗剤の普及。琵琶湖は守られたかに見えたがそうではなかった。1983年9月、珪藻類の大発生し、アオコが発生した。これも富栄養化が原因である。そのころ、湖南生協に「長期ビジョン委員会」が設置され、その一部門に「水環境委員会」があった。藤井さんも参加していた。

委員会は、家庭から出る生活排水を見直そうとしていた。野崎知事時代の1972年、「琵琶湖総合開発特別措置法」が制定され、そのもとで琵琶湖総合開発計画が策定された。その事業の1つとして県が国から補助金を得て進める流域下水道計画があった。

流域ごとに網の目のように下水管を整備し、下流1か所に設置した処理場で集中処理するというやり方だ。一見合理的に見えるが、事業費は巨額で、整備に膨大な時間を要する。

合併浄化槽の普及と条例化へ

藤井さんらは、集落が点在する滋賀県にはふさわしくないと考えた。それに代わる方法はないかと議論し、見つけたのが、各家庭に設置する合併浄化槽だった。それまで下水道のない家庭で設置されていた単独浄化槽は、し尿だけ処理していた。

それに対し、開発されたばかりの合併浄化槽は、し尿と生活雑排水の両方を処理できる。タンクにたまった汚泥は業者が回収し、自治体のし尿処理施設に運ぶ仕組みだ。ただ、設置費用は100万円以上し、管理できる業者もわずかだった。

細谷さんと藤井さんらは、滋賀県に、地域の実情に合った総合的な家庭雑排水の適切な処理を早急に検討、実施することを求め、署名運動を始めた。

1988年、「よみがえれ琵琶湖」と名打った運動は、滋賀県の人口の4分の1を超える34万人の署名を集め、県議会は全会一致で採択した。県は1996年、住宅の新築や浄化槽を設置する場合に、合併浄化槽の設置を義務づける「生活排水対策の推進に関する条例」を制定した。それを受け、国も浄化槽法を改正、補助制度の導入に踏み切ることになる。

全国初の環境生協の誕生

藤井さんらは生協での運動にかかわる中で、こんな疑問を抱き始めていた。

「生協は食べ物が中心だが、環境をテーマにした生協があってもいいのではないか」

「これまで環境に係わる運動をしてきて、人の善意や助成金だけに頼っていては、社会を変える力強い動きにならない」

経済的に成り立つ事業活動。その帰結が、全国初の環境生協の設立だった。1989年、「ブルーエンジェル」の実体を知るためドイツを訪問した。ブルーエンジェルは、環境に優しい商品を認定し、マークをつけ、消費を促す制度のことだ。

ドイツではその10年前に導入され、マークをつけた商品が一般商品と一緒に店頭にならんでいる。マークで識別できるよう、消費者に識別できる情報を提供することで、消費行動の変容を起こそうという環境政策の1つだ。

そのころ、環境庁(現環境省)の竹内恒夫さん(後に名古屋大学教授)もこれに着目し、上司を説き伏せ、制度の導入に向けて準備を始めていた。現在の「エコマーク」である。ドイツの商店に並ぶエコ商品を見て、藤井さんは考えた。

「環境に優しい商品で活動する生協は成立するはずだ」

日本初の滋賀県環境生活協同組合が誕生したのは1990年。2,000人の組合人でのスタートだった。理事長になった藤井さんは、環境に優しい商品を「水」「土」「緑」「大気」「自然エネルギー」の5つに分け、それにこだわる商品を扱った。このユニークな生協活動は、全国の注目を浴び、組合員の数は増えていった。

菜種油でディーゼル車を走らせる

90年代に入って、ドイツ在住の友人から、ドイツでは、菜種油から造った燃料のBDFで車を走らせていることを知った。滋賀県の國松善次知事に、BDFに取り組みたいと相談したところ、滋賀県工業技術センターが協力してくれることになった。試行錯誤しながら実験を続け、精製したBDFで環境生協の配送車を走らせることに成功した。

でも、まだ、実験室レベルである。実用化するにはテストプラントによる実証実験が必要だ。しかし、開発費にはかなりのお金がかかる。藤井さんは、環境庁の水質保全局を訪ね、プラント製造に助成できないかと相談した。小沢典夫さん(後に北海道大学教授)は、藤井さんの熱意に負けた。

しかし、条件がついた。「環境生協に直接助成できないが、町になら出せます」。町がプラントを所有する形にして申請し、県と国が費用の3分の1ずつ助成するようにしたらどうかという。

藤井さんの提案に、愛東町が乗った。40歳の柿田仁敏町長は「環境立町」にするためのアイデアを模索していた。もともと町ではせっけん運動が盛んで、藤井さんは町役場にも人脈を広げ、職員の奥村清和さんは環境生協の理事になり、「愛東町を農業立町から環境立町にする」と唱えていた。藤井さんの提案に、柿田町長が賛同し、滋賀県も支援を約束した。

菜の花畑から地域循環を

1995年3月、大阪の業者が取り組んでいたテストプラントが完成した。「エルフA型」と名付けた。エルフは、エコライフ・フィールドの略称で、廃油の処理能力は1回100リットル。その実証実験が成功すると、次に200リットルの能力の「エルフA2型」の開発に着手した。

しかし、製造能力を高めても、人口5,000人の町で集める廃食油には限界がある。「循環リサイクルを進めるには、どうしたらいいか」。それをもっと大きくしたいと、思案する藤井さんが目を向けたのは、やはりドイツだった。

菜種乾燥調整プラント。収穫した菜種を乾燥する
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

2001年ドイツを訪ねた。ドイツでは、国の支援で農業も盛んだが、増産の悪影響を緩和するために生産調整も行い、一定面積を休耕地とし、そこに菜の花を栽培する政策がとられていた。そのころ、菜の花の栽培面積は、127万ヘクタールあり、収穫量は364万トン(2003年FAO=国連食糧農業機関による)。51万キロリットルのBDFの多くが菜種油から造られていた(European Biodiesel Board)。

藤井さんも、もともと田園地域の愛東町をみて、プラントの整備に着手した時から、菜種の栽培ができないかと考えていた。農業と両立させながら、化石燃料に頼らない燃料政策を推し進めるドイツ政府と、なきに等しい日本とは比べるべくもない。しかし、自分たちの力で、一歩でも近づきたい。ドイツを訪問した藤井さんは、そう確信した。

全国に広がる菜の花エコプロジェクト

1998年、町が動き、「愛東イエロー菜の花エコプロジェクト」が開始された。農家に菜の花を栽培してもらい、搾油して菜種油を造り、学校や家庭で消費する。菜種油を造ったあとの油かすは肥料にし、廃食油は、せっけんやBDFに利用する。菜の花は光合成でCO2を吸収するから、BDFで車を走らせてもCO2を出さない。資源循環と脱炭素の社会に向けた試みである。

しかし、カンバスに絵は描けても、いざ実行するとなると、困難が待ち受けていた。初年度は50アール栽培したが、20アールが雑草のため、ほとんど収穫できずに終わった。残る30アールの畑で育った菜の花を、子供会でつくる「何でもチャレンジ隊」が収穫した。天日のもとで乾燥させ、農機具でナタネをより分けた。こうして40キロのナタネから7リットルの菜種油を搾油した。

搾油・精製プラント。乾燥した菜種から油をとり、製油する
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

これに廃食油を混ぜてBDFを製造し、町の公用車を動かした。翌年の1999年には町内2か所、230アールの作付けをした。國松知事も乗り出し、「湖国菜の花プロジェクト」に発展した。滋賀県八日市、新旭町、新潟県上越市、香川県善通寺市。次々と賛同する自治体が現れ、輪が広がっていった。取り組む自治体や市民団体が集まる全国菜の花サミットが、2001年に新旭町で開かれたのを皮切りに、毎年開催地を変えて、開かれるようになった。

日本では2006年度、青森県、北海道、富山県、滋賀県など全国で889トンの菜の花が収穫された。ドイツに比べてわずかな数字だが、「菜の花プロジェクト」の寄与も大きかった。運動の輪は確実に広がっていった。

環境省と農水省の委員に

こうした活動を展開する藤井さんに環境庁は目をつけた。1997年、後に事務次官になる小林光さんは大津市を訪れた際、藤井さんに会い、「中央環境審議会の委員になっていただきたい」と要請した。この年、環境庁は、気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3、京都会議)を間近に控え、さらに省庁再編をめぐり、環境庁から環境省への格上げを目指す重要な時期であった。藤井さんは、市民代表の委員として政策提言を続けることになる。

環境生協で展開する「菜の花プロジェクト」の活動に、農水省も動いた。農水省が中心となって進めるバイオマス・ニッポン総合戦略づくりのアドバイザリーグループ委員として、藤井さんはかかわっていく。

農水省のバイオマス政策にも

この政策の立案者は、のちに農水事務次官になる末松広行さん。食品流通局食品環境対策室長の時に、食品リサイクル法の法制化の担当となり、その後小泉政権の内閣参事官になっていた。

大都市でない地方都市や農村には、山林や田畑がある。木材と食糧の供給だけでなく、エネルギーも含めた資源として捉え、地域で資源を提供する。地域で使う仕組みをつくることで、疲弊した地域の雇用を増やし、生活を豊かにし、環境にも優しい社会にできる。末松さんは、「バイオマス・ニッポン」と名付けた。その基盤は、藤井さんの歩みに重なるところがあった。

当時の武部勤農水大臣に面会するチャンスがあった。「面会時間は15分の予定でした。でもBDFと菜の花の取り組みを説明し始めると、武部さんは、興味を持ったのか、身を乗り出して聞いていただき、90分も話をすることができました」。間もなく、末松さんから、「バイオマス・ニッポン総合戦略」を策定する委員会の委員になってほしい、と要請があった。

設置された戦略づくりの策定委員会では、「資源作物」「エネルギー作物」という言葉がでると、「とんでもない」と、拒否反応を示す委員も多かった。藤井さんは「地域の資源循環を進めないと。地域でエネルギーをつくることは重要です」と、委員らを説得した。

「バイオマス・ニッポン総合戦略」はその後、民主党政権の事業仕分けで、関連予算が切られてしまったが、現在は、農水省が進める「バイオマス産業都市」や「農業漁業循環経済先導地域」の施策に引き継がれている。

福島復興のため、チェルノブイリへ

福島第1原発事故が起きた2011年3月、藤井さんは、ウクライナを訪問する準備を進めていた。というのは、1990年から、チェルノブイリ救援中部の河田昌東さん(元名古屋大学助手、分子生物学)らは、ウクライナの汚染地域の住民への医療支援や、BDFプラントの建設など、住民の支援を続けていた。

河田さんは、汚染地域に植物を植え、植物に放射線を吸収させる環境修復を考えていた。藤井さんにも出会い、2007年には、ウクライナ・ナロジチ地区で、菜の花を栽培しての実験が始まっていた。そんな関係もあり、2011年4月に藤井さんは、チェルノブイリ原発事故25周年を迎えた現地を訪ねる予定だった。

「菜の花ボランティアバス」で福島へ

そこに起きた3月11日の福島第一原発事故。藤井さんは、「菜の花プロジェクト」を通して長くつきあいのある篠原孝農水省副大臣らと一緒に、翌4月現地に向かった。すでに、汚染地で菜の花を栽培して、搾油したナタネ油からBDFを造っても問題がないことが、河田さんらの実験でわかっていた。藤井さんは思った。

「福島の放射性物質で汚染された地域でも、菜の花プロジェクトが展開できるのではないか」

「菜の花ボランティアバス」と名付け、応援隊を組織し、愛東からバスで福島に向かった。2011年秋、被災地で菜種種子まきが始まった。

南相馬市で全国菜の花サミット

2017年4月、福島県南相馬市で、「第17回全国菜の花サミット」が開かれた。藤井さんの話のあと、桜井勝延南相馬市長があいさつした。

「農業の未来は、自分たちのやる気とそれを信頼する皆さんを結びつける。そういう関係をどれだけ作れるかだ。あらゆる挑戦を続けることが生きることの幸せだ」

地元の相馬農業高校の農業クラブの生徒たちは、農家と協力して行っている菜の花の栽培を報告した。販売した菜種油には「油菜(ゆな)ちゃん」の名前をつけた。福島県須賀川市はじめ、全国各地の取り組みが紹介され、延べ650人が参加する盛況ぶりだった。

「福島には、共感する人たちを集めてバスをしたてて通いました。ボランテイアバスをボラバスと愛着を持って名付けていました。私は被災地に80回ぐらい通い続けています」

撒いたタネは、やがて芽を出し、各地で育っていった。

若者たちが担い、新たな出発

「全国にアピールする役目果たせた」と、2021年に栃木県小山市で開いた20回目の集会で、全国菜の花サミットは、ひと区切りをつけた。藤井さんが興した環境生協も2009年、20年の歴史に区切りを付け、「NPO法人碧いびわ湖」として再出発した。村上悟さんと根木山恒平さんの若いコンビが事業を継承し、藤井さんは監事として彼らの活動を見守っている。

できた菜種油。黄金色をしている
杉本裕明氏撮影、無断転用禁止

NPO法人菜の花プロジェクトネットワークも、2021年に解散することが決まったが、全国に育った菜の花プロジェクトの活動は、地域の組織がそれを引き継ぐ形で、活動を続けている。

菜の花プロジェクト発祥の地である愛東では、NPO法人愛のまちエコ倶楽部が、東近江市の指定管理者として「菜の花館」を運営し、そこを拠点に活動を続けている。伊藤真也事務局長、園田由未子ら若い世代が担う。藤井さんは顧問として、いまも講演はじめ、活動を続けている。

「フロンティア」の軌跡を教訓に

藤井さんは、「地域の食とエネルギーの自立。代替案の提案と実行。諦めず、持続する。社会の仕組みを自らつくる。運動を次世代につなぐ。これらの菜の花プロジェクトが掲げた目標は消えることなく、これからも続けます」と語っている。

藤井さんが全国を巻き込む運動に、いったん区切りをつけたのち、政府は地域での「エネルギーの地産地消」を唱え始めた。一方、ガソリンに混ぜるエタノール、軽油に混ぜるBDFを拡充するため、もっぱら南アメリカやアジアからのエネルギー作物の輸入に頼っている。

EU(欧州連合)の環境規制の波を受け、航空燃料のSAFの原料となる廃食油を確保するために、産業界が血眼になって探し歩いている。かつては、廃食油に見むきもしなかったのにー―。水俣を原点に琵琶湖へ、そして全国へと。その「フロンテア」の役割を担った藤井さんの軌跡を、教訓として、いまいちど、学び取る必要があるのではないか。

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